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支那人心の新傾向
しなじんしんのしんけいこう |
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作品ID | 43797 |
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著者 | 狩野 直喜 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「支那學文藪」 みすず書房 1973(昭和48)年4月2日 |
初出 | 「京都經濟會講演集第三號」京都經濟會 |
入力者 | はまなかひとし |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2009-02-28 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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今晩何か茲に出てお話をして呉れと今村さんからのお頼みでありましたが、何分私は斯う云ふ席に出てお話する資格は無いのであります。併し折角の御依頼でありますから餘り御辭退するのは失禮と思ひまして講演の題目等も色々考へて見ましたが、矢張り私の專門と致しまする支那學の範圍に於て「支那人心の新傾向」と云ふことに就て暫くの間御清聽を願ふことにいたしたい。勿論支那人心の新傾向と申しましても夫が矢張り古來の支那の學術に關係を持つて居りますから、勢ひ經學者の學説に就てお話いたさなければならぬのであります。隨分お聽苦しいこともあらうと思ひますが其事は豫め御承引を願つて置きます。
先年支那に於きまする革命、又之に伴うて共和政體が成立致しましたと云ふことに就ては、此の支那の人心に尠からざる影響變動を起したのであります。勿論秦漢以來革命と云ふものは御承知の通り幾度もありまして、長くて三百年短かくて五六十年の間で以て一姓が倒れ、他の姓が之に代つて天下の主となると云ふことは歴史の上に決して珍しくないのであります。併し是等の革命もたゞ御承知の通り主權者名字が變つた丈でありまして、支那人の思想即ち政治道徳に關する思想に於きましては何等の變化が無いのであります。即ち從來の革命と申しまするものは堯舜は禪讓でありましたが湯武以來は放伐といふものがあり結局君主の徳が衰へて之を行はなかつたから民心が離反し、別に聰明英智の人間が起つて、さうして前代を倒して別に位號を正しくする譯であるが、禮樂制度は革命によりて變るけれども天下を治むるの道は堯舜禹湯文武の道に相違ないので、革命の起る樣になるのは其道が廢れたからで、之を新主が興すのである。故に支那の革命と云ふことは同時に復古と云ふことを意味するものであります。漢人が天下を取りましても、或は蒙古或は滿洲から起つて天下を取りましても同じ事であります。現に前清には滿洲から起りました康煕とか乾隆の諸帝が如何に此の儒教を奬勵し如何に學問に骨を折つたか、如何に此の兩帝が文武の道を踏襲したかと云ふことは、康煕帝の教育に關する勅語を一覽しても直ぐに分るのであります。
ところで此度の革命と申しまするものは之と全く違つたものであります。革命の結果として共和政府が出來ました。で是は支那歴史あつて以來最初の事であるのでありますが、勿論支那でも周の世に一時共和の政が行はれたと云ふことは史記や何かに見えて居る。「周の[#挿絵]王の時王[#挿絵]にあり王位を同うする十四年共和といふ」と云ふことが見えて居ります。斯くの如き共和の文字は史記に見えて居るけれども、實際に於て今日亞米利加合衆國とか或は佛蘭西共和國を模型といたして作つた所の支那の共和政府とは全く關係のないことであります。此の政體が支那の從來の政體と違つたと云ふことは、是れは謂ふまでもなく西洋の思想を受けて斯う云ふ政體が出來たも…