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作品ID | 43825 |
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著者 | 中井 正一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中井正一評論集」 岩波文庫、岩波書店 1995(平成7)年6月16日 |
初出 | 「思想 三二六号」1951(昭和26)年8月号 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2010-11-05 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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一つの神話
日本の伝説の中で、光の美しさを描いているものでは、何といっても、手力男の命が、あの巌壁を開く時、さしはじめる光の、あの強烈な感じの右に出るものはあるまい。あの伝説、暗さへの没入、それからの回復、この構成の中に注意すべき二つの要素があると思われる。第一は、その光の源である脱出の女神が、巌壁の中でその孤独と、寂寥に堪えがたい時、金鵄の命はそれを慰めんとして、弓五張を並べて、音階的な配列で、かなでたというのである。第二は、巌壁の外で、大衆が、神集いにつどい、大論争をし、ついに、衆議一決、天鈿女の命というアフロディテをして、ほとも露わに、ストリップの大騒ぎをすることにするのである。
私は、五張の弓の寂寥をきわめた音と、外のこの大衆の哄笑の二つとも、娯楽のもつ姿を、みごとに浮彫りにしているように思うのである。
ミトスはいつも、哲学的なものを、民族の血の中から人々に伝えているといわれるが、ここでも、また、何かそんなことを感ぜしめられるのである。
遊離の学説
娯楽が、いつも、テーマになる時、ある学者は、現実よりの切断、遊離、転換、放出、脱出を説くのである。
シルレルが、その『美的教育論』に、スペンサーが、『心理学原論』に、さらにジャン・パウル、ベネケ、グランド・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアンなど、みな人間の過剰なる意識を、有用ならざる行為に遊離せしめ、その過剰を放出せしめるのであると考えるのである。「人間は遊ぶ時いっとう美しい」というシルレルの言葉は、この人間より脱出した人間の美しさを説くのである。
ラツァルス、シュタインタールなどは、一方の機能を過度に使用する時に生まれる疲労を、その生活を一応、中止切断して、すっかり異なったまだ用いていない他の機能を用いることに転換することによって、その疲労を回復せしめることが娯楽であると説くのである。
パトリックはその論をさらにすすめて、精神分析的に、「抑圧の開放」にまでもっていくのである。これらの考え方は、一応心理学的に取り扱い、生活からの遊離を娯楽の要素としているのである。
カント哲学の美の非目的性は哲学的な代表的なものであるが、フッサールもその『論理的研究』で娯楽が「記号の位置転換的構成」であることを引例の中に用いている。また将棋をもって、数学的意味の代入における「象徴的運用」として取り扱っている箇所がある。娯楽が、やがて、存在の内面を掘り下げるにあたって、その象徴的な手がかりとなると考える考えかたの一つの代表である。ソシュールが、彼の言語哲学の構造を、将棋の運用構造に適応してみせていることは、後のカッシラーの『象徴的形式』の考えかたに道を開いている。現象の本質的抽象化として、娯楽の本質を考える道が、哲学的には、一応は可能であろう。
そのすべてが、常に、人間の実生活からの遊…