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探偵小説の芸術性
たんていしょうせつのげいじゅつせい |
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作品ID | 43826 |
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副題 | ――文学のメカニズム―― ――ぶんがくのメカニズム―― |
著者 | 中井 正一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中井正一評論集」 岩波文庫、岩波書店 1995(平成7)年6月16日 |
初出 | 「美・批評」1930(昭和5)年5月号 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2010-11-05 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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ラテン語で書かれたすべての哲学書がいつでもイヴの犯した罪なしには書きはじめられなかったように、ドイツ語のあらゆる哲学書も歴史の末にあるという最後の審判なしにはその本を書き終ることができない。哲学の本はいつでもこの古い林檎の臭いがしている。
歴史は、いわば、罪より裁判へ、一つの犯罪的興味の上にある。パスカルの賭けはその裁判に賭けられた滲み透る賭けともいえよう。人の償いがたき罪、その罰を寂しくも待つこころもち、その嘆きと願い、祈りに満ちた問い、この問いこそ、ハイデッガーの指摘する時のすがたであり、原罪の意味なのである。それは存在の深い暴露である。
罪と罰、それ自身、償いがたき過去と現在の情趣である。過去と現在が撓わにまで未来に押し迫る深い情趣である。ドストエフスキーの『罪と罰』の背後には人類全体の上に覆いかぶさる罪の情趣がひろがっている。一篇全体が罪の悔いの中に切り緊められている。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の一篇も最も深い一把みの哀感は許さるべきしかも許されなかった罪の裁きである。文学が社会構成を基礎にしているかぎり、罪なしには悲劇は成立しない。ひろい意味でいえばあらゆる悲劇が犯罪性をもっている。
ただ、今、一般に一片の冷笑をもってよばるる探偵ものは、いかなる構造のもとに嘲罵されながらしかも窃かに愛読されつつあるかをここに顧みる必要がある。
人はコナン・ドイル、ルブラン等々の前身をアラン・ポーという。それはアメリカニズムの系統に見いだす文学として首肯さるるであろう。ジャズが一般の怖れをもってせられる罵倒の中に、すでに全欧を風靡し、フランス楽壇の楽譜の中に姿をかえつつ浸潤しつつあることにもそれは似るであろう。それは、あたかもフォルマリンのように古きものの中に陶酔か、あるいは防腐をほどこしつつある。
しかし、われわれはかのジャズの中に切れ切れにされたチャイコフスキーがあるように、探偵物の中に寸断されながらしかもその中に成長力をもっている『罪と罰』を見いだすべきであると思う。すなわちアメリカよりも、いつももっとはやかった、そしてもっと深かったロシアをこそ注意すべきであると思う。ドストエフスキーにおいて、否定の精神はゲーテにおけるメフィストのように火炎と煙の中より黒衣をはおって出てこない。イヴァンの幻のように縞のズボンをはいている。そしてそれはメレジコフスキーが指摘するようにもっと凄く、もっと陰惨なものをもっている。零下百二十度の宇宙的冷たさの空間の中で斧がどうなっているかを考える精神である。理解さるる無意味、胸に滲む問い、ドストエフスキーの否定はそこにある。否定の精神のおもむろな成長が、世紀の中に、地殻をゆるがせ暴露するとせば、われわれはゲートのメフィスト、ニイチェの侏儒よりもドストエフスキーの幻はもっと痛く、もっとなまなましいのを知る。現代はすでに否定…