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過剰の意識
かじょうのいしき |
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作品ID | 43829 |
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著者 | 中井 正一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間」 美術出版社 1981(昭和56)年5月25日 |
初出 | 「シナリオ」1951(昭和26)年7月号 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 宮元淳一 |
公開 / 更新 | 2005-05-03 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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何年前であったか、親不知子不知のトンネルをでたころであった。前に座っていた胸を病んでいると思える青年が、突然
「ああ海はいい、海はいいなあ……」
といって、一直線にのびている黒い日本海の水平を、むさぼるように凝視しつついうのであった。そして前に座っている私をつかまえて、多くのことをいったが、
「単純な、静かな、この一直線はどうです好いですなあ。私は東京から体を悪くして故郷の山奥の温泉にいくんですが、東京にはこの単純な美しさがありません。男の子と女の子が、山の奥でただ愛しあうというような単純な美しさがありません。……」というような意味のことを口ばやにいった。そして、海を見ながら
「ああ海はいいですなあ。いいなあ。いいなあ」
と膝を軽くたたきながら、いくらいってもいいたりないようにいいつづけていた。
私はその後、リスキンとキャプラのコンビのものの基調に、かかる感じのもの「太平洋のまんなかの島に二人で住みたい」という底の恋人のセリフを見いだしたことがあったが、私が、このまる三年、東京に住みついて、このノスタルジャ、淡いユートピア気分がわかるような気がするのである。
朝の満員の省線電車の中にラグビーのごとく突入して、ひしめくおたがいの中にわきいでる無意味な憎しみ、肌と肌をこんなに密着しながら、顔と顔を、こんなに寄せあいながら、おたがいに理由なく、水のようにみなぎっている憎悪の中に沈みゆられているのである。
「おはよう」というかわりに、東京では数百万の人がこの憎しみの中に浸され、「おやすみ」というかわりに、また数百万の人がこの哀しみの中にもまれて、その一日を過ごすのである。歴史が始まって、こんなかたちの人間の集合があったであろうか。お祭にせよ、戦争にせよ、もっと散らばり、もっとはっきりした感情の理由と自由をもっていた。
ただ過剰であることの理由で、こんなに憎みあっている人間の集合は、いずれの文化段階にも存在しなかったであろう。過剰の中に、さらに過剰たらんとして突っ込んでいく朝な朝な、夕な夕なの東京の人間集合、日本知識人の意識機構「意識の過剰」の、一つの象徴であるかのようである。何か過剰なるもの、こころを、これくらいあらわしているものはないであろう。
私は一つの童話を思い起す。強い力の巨人があった。彼は大地に身を置いているかぎり、その力を失わない。彼は時に大地から身を離すと、その力を回復するために、その大なる掌を開き、そのたなごころを、しっかりと大地に着けるという。
私は力を回復するために、大地にじっと掌を置いている巨人の姿は美しいと思う。
私たちは常に口を開けば「現実」といっている。しかし、この現実について、私たちが何を知っているだろう。いわゆるサマツ主義といわれるトリビアルな眼前に見ている以外のほんとうの現実の何を知っているといえるだろう。私たちの…