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それができたら
それができたら |
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作品ID | 43862 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集18」 岩波書店 1992(平成4)年3月9日 |
初出 | 「新潮 第四十九巻第一号」1952(昭和27)年1月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-12-24 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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一
吾妻養狐場には、もう狐は牡牝二頭しか残つてゐない。いづれも樺太産の優秀な種狐であるが、場主の星住省吾は、これさへ適当な買ひ手があれば、手放してもよいと考へてゐる。
戦争この方、贅沢品にちがひない銀狐の毛皮はぱつたり売行がとまり、そのうへ、飼料たる生ニシンや馬肉の入手もすこぶる困難になつたので、増殖はおろか、百頭あまりもゐた狐をどう始末するかゞ頭痛の種であつた。飼料不足のため自然に死ぬのは別として、毛皮はほとんど投げ売りを覚悟で、やうやく、養狐場の看板だけは外さずに来たのである。
戦争はすんだ。あちこちの同業者が輸出景気を見込んで、狐小舎の金網の修繕など始めるのをみて、星住省吾も、ぢつとしてはゐられなかつた。
かつては、この地方で一二を争つた吾妻養狐場の再興を疑ふものは誰ひとりなかつた。
広大な自然林を含む敷地のなかに、四百坪の狐小舎、その中央に望楼のやうに聳えたつ監視塔、正門からはいると、白樺の植込みを縫つて砂利道が大きなS字形を措き、青ペンキ塗りの事務所の玄関に通じてゐる。この建物は事務室、陳列室、応接間に区切られて、奥の住宅に廊下でつながり、周囲は一面の芝生で、日溜りには主人自慢の甲斐犬がからだをまるめて眠つてゐた。
星住省吾は当年とつて六十三歳である。
シベリヤ、カムチャッカ、樺太を渡り歩いたといふだけで、なにをしてゐたか誰も知らない。漁業関係の仕事で、いくらか産を成したといふ想像をしてゐるものもある。二十年前に突然この土地にはいり込んで、まだその頃は二束三文の土地をしこたま買ひ込み、なにをするのかと思つてゐると、見たこともないやうな毛色の狐を飼ひはじめたのである。
一頭の毛皮が、その頃千円も二千円もすると聞いて、ひとびとは度胆をぬかれた。狐は見る見るうちに数を増していつた。軽井沢あたりから自動車を飛ばして来る客もあつた。生きながら毛皮を予約される狐の運命について、地元の連中は、「たいした狐もあればあるものだ」と言ひ合つた。
檻を潜つて逃げ出す狐もたまにあつた。無傷のまゝ捕つたものには五百円の懸賞がつけられた。青年といはず壮年といはず、土地の男たちは日傭の賃金を棒にふつて、山の中を探し廻つた。懸賞にありついたものは一人もなかつた。
吾妻養狐場の名は近隣に鳴り響いた。
ぼろい儲けを一人にさせておく筈はない。模倣者競争者が、あちこちに現はれた。完全に失敗するものもあつたが、どうやら恰好をつけてゐるものもあつた。
星住省吾は、不思議に慌てる風はなかつた。無益な対立は双方のためにならぬといつて、同業組合の設立を提案し、相手がほとんど素人であるのを知ると、種狐の斡旋や飼育法の指導に乗り出した。ことに、病狐の診療にかけては、土地の獣医も頼りにはならず、いちいち彼の手を煩はすよりほかなかつた。
好物の鶏さへ、鼻を近づけるだけで、あとは…