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一家
いっか
作品ID4393
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第九卷」 雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日
初出「東亞の光」1907(明治40)年12月号
入力者林幸雄
校正者今井忠夫
公開 / 更新2004-02-18 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 友人と共に夕食後の散歩から歸つて來たのは丁度七時前であつた。夏の初めにありがちのいやに蒸し暑い風の無い重々しい氣の耐へがたいまで身に迫つて來る日で、室に入つて洋燈を點けるのも懶いので、暫くは戲談口などきき合ひながら、黄昏の微光の漂つて居る室の中に、長々と寢轉んでゐた。
 しばらくして友が先づ起き上つて灯を點けた。その明るさが室の内を照らし出すと、幾分頭腦も明瞭したやうで先刻途中で買つて來た菓子の袋を袂から取り出して茶道具を引寄せた。そして自分は湯を貰ひに二階から勝手に降りた。折惡しくすつかり冷え切つてゐますので沸かして持つて參ります、と宿の主婦は周章へて炭を火鉢につぐ。宿といつても此家は普通の下宿ではない、ただ二階の二間を友人と共に借切つて賄をつけて貰つてるといふ所謂素人下宿の一つである。自分等の引越して來たのはつい三ヶ月ほど以前であつた。
 序でに便所に入つて、二階の室に歸つて行くと、待ち兼ねてゐたらしい友は自分の素手なのを見て
「又か?」
 と、眉をひそめて、苦笑を浮べる。
 無言に點頭いて、自分は坐つてまた横になつて、先づ菓子を頬張つた。渇き切つた咽喉を通つて行くその不味加減と云つたら無い。思はずも顏をしかめざるを得なかつた。
 自身にもこの經驗をやつたらしい友は、微笑みながら自分のこのさまを見守つてゐたが、
「どうも困るね、此家の細君にも。」
 と低聲で言つて、
「何時行つてみても火鉢に火の氣のあつたことは無い。」
 と、あとは大眞面目に不足極まるといふ顏をする。
「まつたくだ。今に見給へ、また例の泥臭い生温の湯を持つて來るぜ。今大周章で井戸に驅け出して行つたから。」
「水も汲んでないのか、どうもまつたく驚くね。丁度今は夕方ぢやないか。」
「よくあれで世帶が持つて行ける。」
「行けもしないぢやないか。如何だい、昨夜は。」
 と言つてたまらぬやうに、ウハヽヽヽと吹き出した。續いて自分も腹を抱へて笑つた。
 昨夜の矢張り今の頃、酒屋の番頭が小僧をつれて、先々月からの御勘定を今日こそはといふので今まで幾十度となく主人の口車に乘せられて取り得なかつた金を催促に押しかけて來た。丁度主人は不在だつたので彼等は細君を對手に手酷く談判に及んだ折も折、今度はまた米屋の手代が、これも同じく、もう如何しても待つてはあげられませぬと酒屋が催促して居る眞最中に澁り切つてやつて來た。狹苦しい門口は以上の借金取りで、充滿になつて居るといふ騷ぎ。あれやこれやといろ/\押問答がやや久しく續けられてゐたが、終には喧嘩かとも思はるるばかりの烈しい大聲を張り上げるやうになつて來た。殊にいつもこの事に馴れきつて居る酒屋の番頭の金切聲といふものは殆んど近邊三四軒の家までも聞え渡らうかと思はれる位ゐで、現に三四人の子供は面白相に眼を見張り囁き交して門前に群がつて居る。こんな有樣で二階に居る身も…

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