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ある夫婦の歴史
あるふうふのれきし
作品ID44302
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集15」 岩波書店
1991(平成3)年7月8日
初出「苦楽 臨時増刊第四号」1949(昭和24)年7月20日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-25 / 2019-12-26
長さの目安約 71 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


愛するものよ、おんみもしわれを裏切りてわれこれをゆるさんとおもへど、その力なきとき、おんみその力をわれに与へうるや
――ある時代の悲喜劇から


[#改ページ]



 内海達郎は、近頃あまり経験したことのない胸騒ぎを感じた。それは、十数年前にパリで知合つて、わりにちかしく交際をした一人のフランス人、ロベエル・コンシャアルから、思ひがけない手紙を受けとつたことからである。
 手紙の文句はあらまし――戦争はすんだが、君の消息をまづ知りたい。無事であつてくれることを心から祈る。おそらく、君からの直接の返事が貰へるとしても、それを待つてゐる暇は自分にはないと思ふ。一ヶ月後には東京に向つて出発する。ある貿易商の秘書兼通訳の資格でといへば、君は、自分の日本語研究が今やつと役に立つたのだといふことを察しるだらう。船は君も承知のアンドレ・ルボン、ヨコハマ着は七月の末、そちらも雨季が明けた頃だと思ふ。家内や子供としばらく別れるのはつらいが、君のあの頃のことを思ひ出してみて、同じ運命が自分を訪れた皮肉におどろいてゐる。写真でしか知らぬマダム・ウツミに僕の敬意を伝へてくれたまへ。親愛なる友よ、再び君の手を固く握り得るチヤンスが近いことを確信する、といふ意味のものであつた。
 実をいふと、このロベエル・コンシャアルといふ男を友人にもつてゐるといふことを、内海達郎は、今日まで忘れてゐたくらゐである。フランス滞在の四年間を通じて、なるほど、しばしば、顔を合せた異国人の一人ではあつたが、それはまつたく、日本に対する興味だけで向うから近づいて来たといふ以外に、こつちから求めたつき合ひではなかつた。なるほど、ソルボンヌに籍をおいて、かたはら東洋語学校で学んでゐる青年だといへば、まんざら話の合はぬ間柄ではなかつたが、なにしろ、専門がまるで違ふところへもつてきて、なまじつか下手な日本語をしやべり、日本について並はづれた好奇心をもつてゐることが、彼には却つて荷やつかいな相手であつた。早くいへば、しよつちゆう利用されてばかりゐる、といふ感じで、それがまた、特別に無遠慮ときてゐるので、どうかすると、会ふのを避けるやうな態度をみせたことも、一度ならずあつたくらゐである。
 ところで、さういふ男からの久々の便りを見て、この胸騒ぎはいつたいなんだらうと、内海達郎は、自問自答した。
 T大学の細菌学教室が彼の勤め先であつた。講師の肩書は、さほど有がたいものではなかつたが、臨床の方面はまつたく自信がないので、生涯顕微鏡をのぞく仕事に没頭する決心でゐるのである。
 あと始末を助手に委せて、研究室を出た。この十年はまつたく一瞬に過ぎたやうに思つた。そしてその回想は、いきほひ、十年前のパリ生活につながるのである。デュトオ街のアパルトマンから、近所のパストゥウル研究所に通ふ、あの朝夕の、…

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