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懐かし味気なし
なつかしあじきなし
作品ID44303
副題五年振で見る故国の芝居
ごねんぶりでみるここくのしばい
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「読売新聞」1924(大正13)年3月21日、23日
入力者tatsuki
校正者Juki
公開 / 更新2006-04-06 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 本郷座の夜の部を見て何か言へといふ注文なのですが、私はまだ厳密な意味で、他人の作品を批評し得る自信はありません。
 云ふまでもなく、新しい本郷座の舞台で谷崎、菊池両氏の新作が左団次一派の俳優によつて上演されると云ふ事実は、私の好奇心を惹くに充分でした、実は、昨年の夏日本に帰つて以来、まだ一度も、芝居小屋の木戸を潜らなかつたのです。巴里で過ごした三年あまりは、殆ど毎日、役者の顔を見てゐたのに、なぜ、日本に帰つて来て芝居を見に行かないかと云ふと、旧劇はまだ之はと思ふ出しものがないし、新派は初めから大きらひですし、新劇はどれが佳いのかわからないで行く気になれず、と、まあかういふわけでした。
 新しい劇作家が、旧い時代を背景にして、新しい言葉で、旧い感情を、新しい形に盛り上げ、旧劇の役者を使つて新劇流の演出をやらせ、それで旧い見物も新しい観客も、ひつくるめて感心させようとする傾向が、現代日本の劇壇に可なりの勢力を占めてゐるやうに思はれます。
 ほんとうに旧いものを尊ぶ人、ほんとうに新しいものを求める人が、それほど少くなつたのでせうか。
 それはまあいゝとして、谷崎とか菊池とか云ふ新時代の人気ある少壮作家が、どうしてもつと妥協のない作品を発表しないんでせう。両氏の文学的才能を充分に認め、その或る作品に対しては多大の敬意を払つてゐるのですが、今度のものは、何れも感心が出来ないやうに思ひます。
 先づ『無明と愛染』ですが、これは第二幕の初め、奥の間で愛染の声が聞えるまでのやゝ引締まつた場面を除いては、全然劇的でありません。素読をする為めには流暢なあの文章が、如何に舞台を退屈にしてゐるか、如何に暗示的効果に乏しいか、そして如何に非音楽的であるかは、誰しも気のつく事であらうと思ひます。勿論、此の劇の欠陥は文体ばかりにあるとは云ひません。人物が悉く平面的で、時には空虚な感じさへします。各人物の言葉に盛られた感情なり思想なりが、その心理的境遇の推移と歩調を合せてゐない、これは劇的作品の致命的弱点であらうと思ひます。
 此の種の主題を取扱ふならば、作者はもつと豊富な、大胆な、そして殊に理知的な想像力を働かせなければ、見物は作者の企図するやうな恍惚の世界にはいれないでせう。
 左団次の無明の太郎はやりにくさうです。無理はありません。芝鶴の楓は、あれだけ喋舌つて喋舌り甲斐のない役でした。寿美蔵は人形でも出来る役を引受けて、さぞ不満でせう。松蔦は、これも、あの科白だけでは、どうにもしやうがないでせう。

 菊池氏の『浦の苫屋』は、誠に徹底した通俗劇だと思ひました。菊池氏がさういふつもりで書かれたのかも知れません。かも知れないなどゝ云ふのが失礼に思はれるくらゐ、さうらしいのです。見物が低級だと云ふ作者側の云ひ分もあるでせうが、わかり易い芝居と云ふ以外、これはまた、何といふ見物の見くびり方…

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