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文学か戯曲か
ぶんがくかぎきょくか
作品ID44315
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「演劇新潮 第一年第八号」1924(大正13)年8月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-10 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人道主義者ロマン・ロオランはまた民衆劇運動の唱道者である。その著書『民衆劇論』はなかなか傾聴すべき議論であつて、当時一部の活動家を刺戟して、危くソフォクレスの時代を夢想せしめたことは事実である。
 しかも彼れロオランは、例によつて、一理論家たるに甘んぜず、名著『ジャン・クリストフ』を編んだ如く、こゝにまた近代悲劇数篇を綴つて普ねく世に問うたのである。
 此の『狼』はその一つ。
 わが築地小劇場は、在来の貴族的乃至ブウルジュワ的芸術を排して「民衆の為めに、民衆によつて」創造せらるべき「芸術」を探究しようとしてゐるらしい。殊に、この新しき芸術は、必ずしも芸術と叫ばれなくてもいゝ。「芸術に代るもの」であつてもいゝとさへ同劇場の首脳は考へてゐるらしい(此の一項は僕一個の解釈である)。芸術と云ふ言葉は既にあまりに貴族的であり、ブウルジュワ的であると云ふのではなからうか。
 此のプリンシプルから生れた築地小劇場の事業は、正に刮目に値するものである。何となれば、芸術としての演劇は、やがて、われわれの眼前に新しき表現を以て提示せられ、今日われわれの「夢みつゝある舞台」は、その傍に於ては、小さく、醜く、愚かなるものとなつて、識者の憫笑を買ふに過ぎないものとなり終るであらうから。
 僕は、同劇場の第一回公演を観て、聊か卑見を述べて置いた(『新演芸』七月号)。その後、偶々小山内、土方両氏の弁明を聴く機会を得、その結果、僕は今後、築地小劇場とたゞ一点に於て、最も重大なる一点に於て異つた立場にあるべきことを気づいたのである。
 なぜ、重大であるか。それは、演劇の本質問題に触れてゐるからである。
「戯曲の価値と演劇の価値とは全然別物である」――「従つて、演劇の価値を戯曲の価値によつて批判してはならない」――「戯曲は文学である。演劇は文学ではない」――かういふ議論が出た。
 僕は答へる。――「戯曲の価値は演劇の価値を根本的に左右するものである」――「平凡な戯曲が演劇として、即ち、上演の結果、或る程度まで救はれることがある。然し戯曲の平凡さが演劇の効果を傷けることに於て少しも変りはない」――「演劇の価値を戯曲の価値のみによつて批判してはならない。それなら、何もいふことはない。然し、重ねて言ふ、演劇の価値は戯曲の価値によつて根本的に左右される――なぜなら、演出者が、純然たる芸術的立場より脚本を選択する以上、平凡な戯曲、愚劣なる脚本を敢て上演することは、上演者そのものゝ劇芸術に対する眼識を疑はしめるばかりでなく、かくの如き上演者が、真に優れた上演者であり得る筈はないからである」――「戯曲は文学の一部門である。それはわかつてゐる。しかし、戯曲であることをよそにして、戯曲の文学的価値を論ずるものがあつたら、それは批評家ではない。舞台的因襲に縛られた上演の効果問題は別である。現在の演出者では上演出…

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