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脚本難
きゃくほんなん
作品ID44331
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「時事新報」1925(大正14)年1月30日
入力者tatsuki
校正者Juki
公開 / 更新2008-12-16 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 僕は嘗て本欄(時事新報)で、『上演目録』と題し、新劇団体存立の主要条件として、上演脚本選定に払ふべき注意の、忽せにすべからざるを説いたが、そして、「芸術的に」といふ信条以外に、「寛いだ興味」によつて、好意ある見物を惹き之を囚へる工夫をしなければならないことに言及して置いた。「寛いだ興味」――これは、決して、芸術と相容れないものではない。営利本位の劇場を向うに廻し、兎も角も経済的基礎を確立し、その存続を完うする為めには、決して、「演劇研究者」のみを対手としてはならない。――かういふ点をも、暗示して置いた。
 そこで、僕は結局、「苦悶を苦悶として取扱つた作品」、「思索を思索の形に盛つた作品」、更に「人生の厳粛さのみを教へ、又は感じさせる作品」……かういふ作品は、たとへ、芸術としての最上位に位するものと雖も、「芝居の見物」には、「時たまの御馳走」であつて欲しい、と、常々考へてゐる。所謂「教養ある観客」であるが為めに、「陽気なもの」、「ふうわりしたもの」、「とぼけたもの」、「他愛ないもの」が、何故に、「芸術的舞台」から影を潜めなければならないか。人生の真理を物語る芸術家は、何故に、舞台の人物をして、「面白くもねえこと」のみを喋舌らせなければならないのか。「かういふ人物のみが充満してゐる人生とは、実に、陰気な、重苦しいものだなあ」と思はせるやうな人物のみを、何故に好んで描かうとするのか。なぜ、「こんな人物がゐたらさぞ愉快だらう、滑稽だらう、賑やかだらう、世の中はもつとゆとりが出来るだらう」と思はせるやうな人物を、どんどん書かないのか。芝居の見物は、教養の程度によつて、その興味をつなぐ点に相異こそあれ、何れも多くの場合さういふ人物を、さういふ人物の生活を、さういふ人物の活きてゐる人生を舞台の上に、劇場の中に、見に行くのである。なほつツ込んで云へば、彼等は自分たちの味気ない、平凡な、窮屈な、どんよりした、単調な生活、その生活から逃れて、一つ時でも舞台の上の、或は華やかな、或はとんでもない、或はべらぼうな、或は気の利いた、或は胸の透くやうな、或はほゝゑましい、涙ぐましい、何でもかまはない、さういふ「面白い」生活を生活し行くのである。
 そんなことはどうでもいゝ、おれは書きたいものを書く、と、傲語する芸術家はよし、見物が一人でも多く、又は、少くともこれくらゐ来て欲しいと思ふ劇場は、これくらゐのことを心得てゐる筈である。
 処で、僕は最近、或る新劇団を統率する某君と色々話しをして「それなら、現代の日本劇ではどんな作品が、その主旨に合してゐる脚本だらうか」といふ問題になつて、僕は、一寸まごついた。
 この一事を、僕は僭越ながら、読者と倶に、当代日本の劇作家に訴へて置きたい。



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