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幕は開かない
まくはひらかない
作品ID44349
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「文芸日本」1925(大正14)年5月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-10 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕は嘗て『戯曲時代』といふ一文を『演劇新潮』に書いた。猫も杓子も戯曲に筆を染める時代といふ意味でもあり、舞台にかゝらない戯曲が、活字としてのみの存在を認められる時代といふ意味でもあつた。そしてかういふ時代は、古今東西にその例を見ない処であり、かういふ現象は、何かの潜在理由があるからであり、且つ、早晩、此の現象から何か面白い結果が生れさうだといふことも暗示して置いた。
 処が、その後、依然『戯曲時代』は続いてゐるに拘はらず、それがさも偶然の文壇的傾向乃至趣味的流行だぐらゐに思つてゐる人が案外に多く、「これが一体どうなるんだ」と首をひねつて見る批評家さへとんと現はれないのを、僕は実際不思議に思つてゐる。
 まあ、批評家と云へば、いろいろの方面のことをあれこれと論議する忙しい職分をもつてゐる日本のことであるから、芝居の方までは手が届かないのかも知れないが、そんなら、自分でその戯曲を書く連中は――僕もその一人であるが――抑も何をしてゐるのだらう。
 君達の戯曲は――僕達の戯曲と云へば、誰かゞ何んとか云ふだらう――全体、いつ舞台にかけられるんです。民衆芸術とやらを標榜して、どんな役者にでもやれさうな芝居を書いてゐれば、それや、偶には上演料もはいるだらうが、こいつは別の話で、在来の芝居から一歩でも踏み出さうとして、折角、苦心惨憺した作品を、毎月、どれくらゐ、われわれは古雑誌の中に見出すことだらう。
 劇場の方では、「佳いもの」なら何時でも上演するといふかもわからない。今の劇場の人などに、新しい戯曲の「佳い悪い」が、さう簡単にわかられてたまるものか。ねえ、さうでせう、劇作家諸君!
 それや、お互に、「まづいもの」も書きますさ。どうせ、舞台にはかゝらないんだから、そこは安心なもんだ。しかし、そんなことばかり云つてをられない。小説を書けば、あらが目立つ。戯曲なら、少し「面白くなく」つても、世間が許すから、と云ふんで戯曲を書いて、劇作家といふ名を頂戴し、君は小説家か、さうか、吾輩は劇作の方をやつとる、などゝ納り返つてゐることは、もういゝ加減にやめやうぢやありませんか。
 芝居を書くことは六ヶ敷い。さういふことだけでも、「戯曲なら……」などゝ思つてゐる連中に知らせてやるには、どうしても相当の役者に、諸君の書いたものを演らせて見る必要がある。
 処で、その「相当の役者」といふやつがゐない、と云ふんでせう。ゐませんね。これは全く悲しむべきことです。が、悲しむばかりが能ぢやない。一つ、さういふ役者を探し出したらどうです。作つたらいゝぢやありませんか。さあ、問題がやかましくなつて来た。僕一人ではどうすることも出来ない。と云つて、僕は逃げ出しはしない。諸君さへその気になれば、一緒に、大きな声を出すなり、旗竿を持つなりぐらゐのことはしますよ。
 そこで、今度は俳優志願者といふやうな人達につ…

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