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劇作家としてのルナアル
げきさっかとしてのルナアル |
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作品ID | 44353 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集20」 岩波書店 1990(平成2)年3月8日 |
初出 | 「別れも愉し」春陽堂、1925(大正14)年5月15日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-03-28 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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劇作家ルナアルは、ミュッセと共に、僕に戯曲を書く希望と興味と霊感とを与へてくれた。彼に就いて何かを言はなければならないなら、僕は寧ろ黙つてゐたい。僕はあまり多く彼に傾倒し、あまり多く彼の芸術に酔つてゐる。
彼は生涯にたつた六篇の喜劇を書いた。小喜劇を書いた。その小喜劇は、偉大なる力を以て舞台を征服した。彼は既に非凡なる戯曲作家の「息」をもつてゐた。
彼は何よりもまづ「魂の韻律」に敏感であつた。
拙訳『葡萄畑の葡萄作り』によつてルナアルを知つた人は、彼が「沈黙の詩人」であることを忘れてはゐないだらう。
「裏面の詩」は無限に拡大する言葉の幻象である。
彼の作品を透して、声と色彩の陰に潜む作者の吐息を、しみじみと感じ得ないものがあつたら、文学はその者の為めに開かれざる扉である。
彼は何人の前にも扉を開かうとはしない。
彼の劇作は、先づ『人参色の毛』から紹介せらるべきであつた。
僕は、山田珠樹君がその翻訳に着手しつゝあることを知つた。
僕は『日々の麺麭』と『別れも愉し』の二篇を訳すことで満足した。
山田珠樹君は僕の信頼畏敬する学友である。
こゝに紹介する二篇は、自然を愛し人間を嫌ふルナアルの、最も多くその人間に接触したであらう巴里生活の記録である。
雅容と機智を誇るわが巴里人は、一世の皮肉屋狐主人の筆端に翻弄せられて、涙ぐましきまでの喜劇を演ずるのである。
然しながら彼は、巴里人の、仏蘭西人の、心底からの人間らしさには、流石にほろりとさせられる弱味を有つてゐた。
そして、英吉利人の、あの人間臭さには、常に顔を顰めた。
北欧の、又は現代日本の、各人物それ自身が、勿体らしく何か考へながら物を言ふ、さういふ戯曲に慣らされた日本の読者は、仏蘭西の、少しよく喋舌る舞台上の人物の、細かく動く口許ばかりに気を取られて、それを、ぢつと聴き澄ましてゐる作者の底光りのする眼附きを忘れ勝ちである。
言葉の数は、必ずしも沈黙の量と反比例はしない。
ルナアルに於て特に然りである。
彼は、言葉の価値のみが沈黙の価値を左右することを誰よりもよく知つてゐた。
彼が「沈黙の詩人」――真に「沈黙の詩人」たる所以である。
舞台上の人物が、何か考へながら間を置いて物を言ふ――これは、さういふ人物だからである。舞台上の人物が、よく喋舌る――黙つてゐる時間が少い――それも、さういふ人物だからである。
傑れた戯曲は、人物が喋舌る喋舌らないに拘はらず、絶えず作者が人物の心の動きを追ひながら、そこから生命の韻律的な響きを捉へることに成功してゐなければならない。
寡黙な人物を好むことは勝手である。
饒舌な人物を厭ふことも勝手である。
要するに、作品の価値は、寡黙な人物が如何に描け、饒舌な人物が如何に描けてゐるかに在る。而も、寡黙な人物のみが登場する舞台…