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幕間
まくあい
作品ID44362
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
「言葉言葉言葉」 改造社
1926(大正15)年6月20日
初出「女性 第八巻第二号」1925(大正14)年8月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-10-12 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 妙なことを云ふやうですが、僕は、芝居を観に行くたんびに、「劇場の空気」といひますか、あの幕間の数分間が醸しだす見物席乃至廊下の雰囲気を、そんなに有難いものだとは思はないのです。出来ることなら、たゞ一人、親しい連れでもあれば、その連れと二人でもいゝ、どこか、人も見えず、人にも見られないやうな一隅を見つけ出して、次の幕があくまで、今見たばかりの舞台を、もう一度静かに、頭の中で繰り返して見たい、さういふ慾望を制し得ないのです。
 これは甚だ間違つた了見かも知れません。間違つた了見と云へば、僕は先年、イタリイの旅を終つてパリに帰つた時、印象はと聞かれて或る友人に答へた言葉が、「イタリイにイタリイ人がゐなかつたら、さぞよからう」
 僕は、今、「芝居を観る処が劇場でなかつたら、さぞよからう」と、それほど皮肉なつもりもなく云ひ得るやうな気がします。

 これは日本でも西洋でも同じことだと思ひますが、芝居小屋、即ち劇場といふ処は、或る意味で一つの社交機関と見做されてゐる。或ひは、いろいろの点から、流行のマニフェスタシヨン、ヴアニテエの相互満足が行はれる場所なのです。
 美しい性のいはゆる「芝居行きのお化粧」はまあ別として、「処で、今度僕の方の会社ではね……」と云つた話の調子から、「昨夕の放送曲目は、なつちやいないぢやないか」などゝいふ物腰に至るまで、さては、「僕も読んだよ、一寸いゝ処があるね、あれならまあ褒めてやつてもいゝ」――「こゝの洋食は近頃うまくなつたよ。僕は認めてやるよ」
 みんな、少しづゝ、上気せるんですね。

 が、まあ、それもいゝとしませう。
 どうせ、幕間が舞台より面白かつたりしては大変ですから。
 尤も、幕間といふものが無ければ、芝居には来ない連中があるかもわからない。
 それほどでなくとも、幕間なるものが無いとなると、自分が芝居を観に来てゐるといふことを、つひ忘れてしまふ連中があるかもわからない。少くとも、芝居を見に来たやうな気がしない連中があるかもわからない。
 僕なども、実を云へば、二時間も続け打ちに舞台を見せられてゐては、どうにも疲れてしやうがないのですが、幕間があるなら、一人で観てゐるより連れがあつた方がいゝ。話などはしなくても、幕が下りて、たゞ、お互ひに顔を見合はせたゞけで、「なるほど」と首肯き合へるやうな連れが一人ほしい。

 パリの劇場で、幕間の数分間を、さほど不愉快に思はずに過せた劇場と云へば、まあ、コメデイー・デ・シヤン・ゼリゼエの、それも木曜のマチネでせうか。
 見物の数は三四十人。座席はあれで八百もありましたらうか。ピトエフ夫妻が、死物狂ひの舞台を見せてゐるやうな時でした。
 それは、今日の築地小劇場と、やゝ似た「客種」であつたせいもあり、それでゐて、あらゆるジエネラシヨンを網羅し、あらゆる性が略ぼ平等の数を占めてゐたからでせう。…

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