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新劇界の分野
しんげきかいのぶんや
作品ID44397
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「演劇新潮 第二巻第三号」1927(昭和2)年3月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-11-17 / 2014-09-18
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昨今の戯曲界を見渡すと、月々発表される戯曲の数こそ多いが、そして、その数の多いことが何となく華々しい外観を呈してゐるが、質の上からいへば、注目に値するものが寔に少い。実際舞台にかけて見て、相当見応へがあると思はれるやうなものは、極く稀れである。この点、私自身も、自ら顧みて忸怩たるものがある次第であるが、かくの如き状態は、度々繰り返して云ふことであるが、わが国の劇作家が、常に一つの「完成された舞台」から、好き刺激と霊感とを受ける機会がなく、一方、雑誌を唯一の発表機関とする不合理な状態から、知らず識らず「舞台的感覚」が作劇の上で、無視せられがちであるからだと思ふ。その上、多くの作家の生活様式が、月々四五十枚の原稿を二晩か三晩で書き飛ばすことを余儀なくさせ、しかも、その生活様式を改めようとしないのであるから、どつしりした、密度のある作品がなかなか生れて来ないのは当然である。しかしながら、これらの理由は、一人の天才の前では、少くともその意味を失ふ性質のものである。それは断るまでもない。
 かくの如き戯曲界の現状に向つて、誰がどういふ批難を加へようと、その批難は常に真理を含んでゐると見られる。そこで喧々囂々、甲は乙の傾向を罵り、乙は丙の色調を貶し、丙は又甲の主張を嘲るに日もこれ足らざる有様である。
 文壇の事情に通ぜず、また一個の定見を備へない世人の中には、殊に、新しい演劇に好奇の眼を向けつつある若きアマトゥウルの中には、自らその帰趨に迷つて、徒らに頭を悩ます連中がなくもないやうである。これは已むを得ないことには違ひないが、その結果は、新しい演劇に対する民衆の不信と軽侮とを生み、その発達進化の上に著しい障碍を齎すことは慥かである。
 私は、自ら一つの立場をもつてゐる演劇研究者であり、殊に、意識的にも、無意識的にも限られた趣味に活きる芸術修道者であるから、期せずして我田引水に陥るかもわからないが、努めて公平な態度を持しつつ現代の戯曲界、並に演劇界の分野について、簡単なる討究を試み、主なる傾向の特色を明かにしたいと思ふ。
一、北欧系。これはスカンヂナヴィヤ、露西亜、及び独墺の作家から影響を受けたもので、それら様々の作家の思想、形式、手法、色調を幾分づつ受継いだもの。この一派は戯曲に「力」を要求し、「深刻さ」を求め、従つてその戯曲中に「人生の意義」を、「社会の問題」を描かうとし、従つて、人物の性格も暗く、沈鬱で、理窟を好み、時によると喧嘩ばかりしてゐる。とは云ふものの、それは北欧作家の共通点でなく、日本の北欧系作家が、その点を強調してゐるだけである。これらの人々の中には、ドラマによつて「魂をゆすぶられ」、「心臓をつかみ出され」ることを望み、「ドカーンと丸太棒でぶんなぐられるやうな不愉快な」目に遭ふことを此の上もなき愉快なこととしてゐる人々がある。
 尤も、この一派が、特別…

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