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作品ID | 44405 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集20」 岩波書店 1990(平成2)年3月8日 |
初出 | 「東京日日新聞」1927(昭和2)年4月24日、26日、27日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-03-31 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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自分が芝居の実際方面に関係してから、まだ半年もたゝないのだが、その間に、色々の経験もなめた。理窟だけを並べてゐた時代には、そんなでもあるまいと思つてゐた劇壇の内情を見聞きするにつけて、私は、自分ながら、飛んでもない処へはまりこんだなといふ気がし出した。「血があれる」といふ言葉が本当によく当つてゐるやうな、さういふ雰囲気を感じ出した。かういふ世界で、本当に自分の仕事をして行く人、何か知ら「とらはれない仕事」をして行く人があれば、その人は、全くえらいと思ひ出した。
私は自分の熱情と、素質に疑ひを持ち出した。
新劇協会は、今、私の『葉桜』を上演してゐる。私は初めて自作の舞台監督をしたが、作者は、――殊にあゝいふ種類の戯曲の作者は、自ら舞台指揮をなすに当つて、最も困難な立場に置かれるものであるといふ事実を知つた。
いろ/\な事情で、稽古は四五度しか出来なかつた。それでも登場俳優があの通り二人きりで、しかも、その二人が、相当、舞台的経験のある人達だから、黙つてゐてもある程度までその役柄を仕活かしてくれるので私は楽なことは楽だつた。実際は監督らしい仕事もしてゐないくらゐである。それといふのが、私の書くやうな戯曲は、舞台監督がどんなに骨を折つても、それほど演出上の効果に変りがないのみか、舞台監督の下手な工夫は、却つて俳優の演技を萎靡せしめるやうな結果になることを知つてゐたから、私は、大体、伊沢、水谷両嬢の「仕易いやうに」といふ消極的態度を取つた。これは、何も、舞台監督としての責任を回避するわけではなく、むしろ、さういふ演出法もあり得るといふ一例を示したつもりである。果して多くの見物は、蘭奢、八重子両嬢の演技に喝采を送つた。
ところで、私が、作者兼舞台監督として、今度はじめて味はつた気持についていへば、作者としての自分は、舞台監督としての自分に少なからず不満を感じてゐるのである。それと同時に、舞台監督としての自分は、作者としての自分に可笑しいほどの気の毒さを感じ、しかも、それは、どうしやうもないといふ自暴自棄に似た逃げ口上をさへ用意してゐるのである。
余りに作者の意図を知り、しかも、あまりに作者に忠実であらうとする舞台監督の悩みが、そこにあるのではないか。否それよりも、「自分の仕事」をもたない、「自分の仕事」の範囲について明確な意識をもたない舞台監督のみじめさがそこにあるのではないか。
作者が劇場に足を踏み入れる危険が、また、そこにあり、舞台監督が文学者である不都合が、従つて、そこにある。
私は、少し考へなければならない。
私は、それに、やゝ恢復しかけた健康を、またいくらか損ひかけてゐる。私の主治医は、今日もきびしい、いましめの言葉を残して行つた。体重を計つて見たら、この一月の間に六百目へつてゐる。私は少し暗い気持になつて、町の浴場を出て来た。
向う…