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「チロルの秋」上演当時の思ひ出
「チロルのあき」じょうえんとうじのおもいで
作品ID44419
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「文章倶楽部 第十二巻第十一号(戯曲研究号)」1927(昭和2)年11月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-03-25 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「チロルの秋」は私の第二作であつた。それが、大地震の翌年、たしか大正十三年の十月か十一月かに、新劇協会の人々の手で帝国ホテルの演芸場で上演されたのが、私の処女上演であつた。正宗白鳥氏の「人世の幸福」と久米正雄氏の「帰去来」とがプログラムに並んでゐた。
 正直に云へば、私は自分の処女上演について余り香ばしい思ひ出を懐いてゐないので、なるならば語り度くない気持が非常に強い。といふのは、私はそこで作家としてずゐぶん大きな失望を感じたからである。自分の作品を舞台のものとして見てゐるに堪へられなくなつて、劇の半で座を立つて外へ出てしまつた程であつた。
 少し強く云へば、あの場合周囲の見物達に全然かゝはらないで、「幕を閉めてしまへ!」と舞台に向かつて怒鳴ることが出来たらと思つたものである。
 併し、その失望の原因は、決して単に俳優や演出者の罪に嫁すべきものではなかつたのである。大部分の原因は、寧ろ私の書くものが日本の新劇の畑に適しないものであつたことゝ舞台に対する私の理想が、到底実現され難いほど、無制限に大きなものであつたといふことに依るのであつた。自分の未熟な脚本について、私が独りで頭の舞台へ描き出した空想があまり素晴らしすぎたのである。実際の舞台といふものに少しも経験のない私は、劇作家としての理想が舞台の上でどの程度に実現されゝば満足しなければならないかの標準が全然わからなかつた。つまり戯曲と演劇との間に当然つけなければならない隔たりが会得されてゐなかつたのである。
 誰でも芝居の実際になれてくれば、自然、作家の理想は上演の際にはその幾部分しか実現されないのが普通であることがわかつて、自ら安ずるやうになるのであるが、これはまた一面から云へば、作家にとつて甚だ危険なものでないことはない。どんなにしても要するに舞台の上ではこの程度にしか実現されないのだからといふ風に蔑しろに考へて、不知不識創作する気持をそこまで引下げて気がつかないといふやうなことも起り得るのである。
 そこで、私は今では創作家は、演劇の実際には成る可く関係しない方がいゝといふ持論に傾いてゐる。中には劇作をするのに舞台の実際を知つてゐた方が都合がいゝ、勉強のために舞台の経験をするのだと考へてゐる人が、今の若い人達の中には多いやうであるが、私は創作をするのに在来の舞台上の約束などゝいふものは大して必要ではないと思ふ。創作家はある意味で、舞台の実際問題としての不便や、窮屈さに煩はされないで、あくまでも自分の理想を高く持して進むことが必要である。しかるに、舞台の実際、殊に現在の俳優の能力をあまり委しく知りすぎてゐると、無意識の間に上演の結果を考慮に入れて妥協するやうになり易く、したがつて創作の態度が不純なものになり勝ちである。

 私は最初の上演には、舞台の上の一切のことを人に任せて、自分はたゞそれを見てゐるだ…

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