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日本史上の奥州
にほんしじょうのおうしゅう
作品ID44427
著者原 勝郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本中世史の研究」 同文館
1929(昭和4)年11月20日
初出「奧州沿革史論」仁友社、1916(大正5)年6月
入力者はまなかひとし
校正者土屋隆
公開 / 更新2010-02-13 / 2014-09-21
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明かであつて、一方は阿曇比羅夫時代に既に津輕まで屆いて居るのに反し、一方は日本武尊東征の傳説を除いては、之と比肩すべきほどの事實を見出すことが出來ぬ。奧州の方面に於ては彼の有名な白河の關なるものがあつて、これより以北は支那でいふ荒服の地同樣に目せられて居つたことは今日に傳はつて居る數多の文學其中にても卑近な例を擧ぐれば能因法師の作として人口に膾炙[#「膾炙」は底本では「[#挿絵]炙」]して居る「都をば霞と共に立ちしかど」の歌、降ては梶原源太景季の「秋風に草木の露を拂はせて」の歌等に徴しても分かるのであるが、出羽の方には此白河の關ほど經界として明かに認められて居るものがないといつてよい。鼠ヶ關(念種關)などいふ所もあるけれども、奧州の方の咽喉なる白河の關の如く世に知れ渡つては居らなかつた。つまり昔の日本人が出羽をば奧州程に半外國扱をしなかつたことは、此例によつても分かるのである。越(古志)といふ汎稱につきては、從來種々の議論もあるやうではあるが、予は之を以て、北陸道から出羽津輕及び北海道の少くも西部を包括する所の總名であつたと考へるのが、穩當であると信ずるので、一方に於て和銅年間に越後を割いて出羽の國を置かれたのは、日本港岸の拓殖の大に進んだ證據であるのに、之に反して太平洋に面した方の常陸以北は、日本に於て文化の浸潤の最も緩漫であつた地方といふべきで、若し和銅年間に郡家を閉伊に置いたといふ事實を大げさに考へるとすると、當時奧州の拓殖も出羽に劣らず捗つたとも想はれるのであるけれども、之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都…

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