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映画の観客と俳優
えいがのかんきゃくとはいゆう
作品ID44439
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集23」 岩波書店
1990(平成2)年12月7日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-22 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 映画はその歴史が若いやうに、映画の観客といふものは、概して非常に若い。一体に、芸術的なもの、精神的な娯楽を求める年代は、まだ生活のためには時間を多く取られない青年期であるに相違なく、文学的な読書なども四十を過ぎると、もうその必要を感じなくなるといふのが普通らしいが、それでもまだ、文学や演劇の方面では、大人にも十分魅力のあるやうなものがあるのである。ところが、映画となると、先づ第一に、内容がどうも大人の頭で考へられてゐず、世間をある程度知つてゐる眼から見ると、馬鹿々々しい嘘が多すぎ、形式から云ふと、自由であるだけに洗煉されてゐないところがあり、珠に、映画館の空気といふものが、変に子供臭くできてゐるのである。若い人達が沢山ゐるといふやうなことではない。装飾にしても、設備にしても、大人の神経にはどうも容れられないところがある。つまり、気恥しいのである。
 映画は時代の尖端を行くものだから、時代遅れの年寄には向かんといふ理窟は成り立つやうで成り立たない。映画はなるほど時代の尖端を行く芸術たり得るものであらうが、日本今日の映画企業は、さういふ意味の感覚に於いて寧ろ甚だ遅れてゐるがために、即ち、青年的であるよりも寧ろ幼稚さを暴露してゐる場合が多いために、若さのもつ魅力よりも若輩をしか吸引し得ないあざとさによつて、十分時代に敏感な人々をすら近づけないといふこともある。
 この点は、西洋の映画についても云へないことはない。ただ西洋ものには、相当の例外があり、娯楽としてなら十分大人を満足させ得るほどの本格的商品が出はじめてゐるのである。
 日本の映画も最近では、さういふ程度のものを目がけてゐるらしい傾向があり、甚だよろこぶべきことであるが、まだ、なんとしても、興行者側が本腰を入れてゐないことが明らかで、その著しい証拠は金をかけるべきところにかけてをらず、根本の問題に一向手を触れる様子がない。

 それでは、根本の問題とは何かといふと、第一に、西洋映画は何故面白いか、といふことを少し考へてみればわかるのである。
 興行者は、きつと答へるであらう。それは市場の関係で、日本の数倍といふ金を製作費にかけ得るからだ、と。また、批評家は云ふであらう、監督の頭脳と技術が、比較にならぬほど優れてゐるからだ、と。しかし、一般の見物は案外正直で、しかも勘がいいのである。即ち彼等の大部分は、西洋映画に於ける俳優の魅力を真つ先に語るであらう。
 いや、それならば興行者も批評家も、それに気づかぬ訳ではないと云ふかもしれぬが、僕の見るところでは、恐らくそれに気がついても、それはどうにもならぬと思つてゐるくらゐの気のつき方で、やつと監督だけが、どうにかせねばならぬと思つてゐるにすぎないやうである。
 それでは、日本の俳優は西洋の俳優に比して、どれだけ劣つてゐるか、どこが劣つてゐるか、何故に劣つてゐるかと…

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