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官立演劇映画学校の提唱
かんりつえんげきがっこうのていしょう |
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作品ID | 44447 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集23」 岩波書店 1990(平成2)年12月7日 |
初出 | 「東京朝日新聞」1936(昭和11)年12月8~11日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-12-02 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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演劇と映画とは元来なら別々に論ぜられなければならぬ要素をそれぞれにもつてゐるのであるが、現在の日本では、この二つの部門が、その芸術的水準と文化的役割とに於いて、寧ろより多く共通な問題を含んでゐることを見逃してはならぬと思ふ。つまり、現代の日本演劇に最も欠けたものがあるとすれば、それは今日の日本映画に於いても同様に最も欠けたものなのである。
しかも、それは、専門批評家のみならず、一般国民が直接に感じながら、どうすることもできずにゐることなのである。つまり、その欠陥が現代演劇映画の根本的な「不健康性」を形づくり、他の芸術部門に比して、娯楽としても教養としても、現代の魅力ある生活表現となり得ない結果を招いてゐるのである。
その欠陥とは何かといへば、俳優の不足である。優れた教養と正しい演技能力と、必要な年齢と、社会的責任の自覚とを併せもつた俳優がゐないといふことは、勿論演劇映画を純然たる企業化した資本家の責任であるが、これを商業主義の利用に一任した国民全体の無定見にも罪があることはいふまでもない。が、更に重大なことは、新文化建設の途上にあるわが国の指導階級、殊に、政治家たちが「芸術と国民生活」の問題にまつたく無関心な態度を示してゐるといふ一事である。
なるほど検閲といふ制度はあるが、これはたゞ、当局が有害と信ずる部分を除去する手段であつて、それも、「芸術的作品」の有害無害は、如何なる標準に拠るべきであるかといふ考慮の下になされてはゐないのである。
例へば、風俗壊乱云々といふが如きも、勿論、趣旨として取締は必要であるが、風俗の由つて来るところを弁へなければ、影響の性質も範囲も断定し難いのである。現在の検閲制度とその方針なるものは、ヂヤーナリズムをあげての卑俗化と頽廃化を如何ともすることができないではないか。
これは余談だが、さういふ消極的な面に文化政策の機能を限ることが、そもそも間違ひなのである。が、最近は政府当局も、いろいろな動機で演劇、殊に映画への注意を向けはじめ、目的が何処にあるにもせよ、その事業の発展を促さうとする画策をはじめたやうである。ところが、その具体案をみると、なるほど世上恐れをなす政治的統制の色彩が濃厚である割合に、国家として手を下すべき根本的な施設に触れてはゐないのである。
私がくれぐれも当局に注意したいことは、演劇映画の部門においては、若干の無資力にして性急な半素人的研究団体が存在した外、未だ嘗て、職業としての本格的な教育機関が何人の手によつても創られなかつたといふことである。
事実、名称だけは俳優学校と呼ばれたいくつかの組織がありはしたが、そこには、合理的なメソードもなく、近代アカデミイとしての人的統一もないのである。文明国日本の文化水準から云つて、これまで何人をも首肯させるに足る専門的技術の指導機関がひとつもなかつたといふこと…