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こんげつのかんそう
作品ID44450
副題――文芸時評
――ぶんげいじひょう
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集23」 岩波書店
1990(平成2)年12月7日
初出「東京日日新聞」1937(昭和12)年1月24~26日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-12-02 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 雑誌を一度に隅から隅まで読むのは辛いから、私は、さういふ義務を負はない約束で、この文章を書くことにした。
 私が今、拾ひあげたい問題といふのは、当節やはり一番人々の注意を集めてゐる日本対世界、民族対人類の問題であらう。これは私自身についていへば、もう解決ずみなのであるが、理窟をこねればこねられないこともない。たゞ、多くの人の議論を読んでみると、たいていは自分の立場をはつきりさせることに汲々としてゐるだけで、それによつて新しい眼界が開けるやうなものは先づ少いといつていゝ。
 つまり、さういふ立場からはさういふより仕方があるまいと思はれるやうなものばかりである。が、それも個人の仕事の順序としてはやらなければならないことであらう。たゞ、何時果つべしとも思はれないのが少々焦れつたい。
 私の観るところ、文学者としてさういふ意見を発表してゐる人々は、何れも立派な心掛けをもつてゐる人々で、いはゞ、日本人としても、世界人としても精神的貴族の部類にはいる人々なのである。ほかにいふことがなければとにかく、相手の議論が世に害毒を流すといふ理由で、それ/″\相手を打ち負かさうと意気込むその態度はなるほど真剣ではあらうが、翻つて、その意気込みの相反撥する結果を考へたならば、読者大衆を五里霧中に追込むだけである。そこから、努力してはひ出るものは、荒れ果てた土壌の上に茫然と眼をおとさないわけに行かぬといふのが、ともかく日本の現状なのである。
 官僚風に挙国一致などを強ひるわけでは毛頭ないけれど、文学者は、もつと高遠な思想に遊ぶか、もつと卑近な現実を直視すべきであつて、所詮そこでは、日本人の頭で、文化の未来を考へ、日本人の心情で自他の幸福を思ふよりほかないのである。
 平明に哲学することのできぬ国語での、半分づつわかりあつた論戦にはお互にもう倦きてもいゝ頃ではないか。対立する思想よりも、共通の観念に興味を持ちはじめたのが例のヒユウマニズムの呼び声だと思つてゐるうちに、ヒユウマニズムが更に頭と尻尾との噛み合ひに終つた形である。これが、民族対世界の奇怪な同士討だとしたら、誰が喝采などしてくれよう。
 軍部と議会との渡り合ひを昨日今日われ/\はどんな気持で眺めたであらう。どつちかへ加担するものがあつたら、私はとくとその理由を訊ねたい。国民は単なる論理やジエスチユアに迷はされてはならぬ。真実を語るのはたゞ、己れを無にした精神の火花だけである。
 こゝで引合ひに出すのは、聊か「月遅れ」に違ひないが、横光利一氏帰朝第一回作品「厨房日記」を再読し、これに対する諸家の批評をのぞいて、私は、感慨に耽つた。これは作者自身のいふ「現代日本の知性」が欧羅巴的なものに立ち向ふひとつのポーズを鮮かに描いてみせた作品の好適例であるが、私は敢てこの皮肉な作品の意識的な構図を分析しようとは思はない。…

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