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演出について
えんしゅつについて |
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作品ID | 44471 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集22」 岩波書店 1990(平成2)年10月8日 |
初出 | 「劇作 第二巻第一号」1933(昭和8)年1月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-10-20 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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以前は単に「舞台監督」と呼ばれてゐた者が、今日では「演出者」といふ名称を与へられ、その下に、更に「舞台監督」なるものや、「演出助手」なるものが従属するやうなシステムを、少くとも新劇団体の間で採用してゐるのは、多分、築地小劇場あたりの「独逸流演出法」から範を取つたものだと思はれるが、近代に於ける演劇革命の一特色が、舞台労役の組織化に在つたとすれば、この大がかりな命令系統の樹立は、あながち無益なことではあるまい。
そこで、私は、この旧称「舞台監督」即ち、今日でいふ「演出者」の仕事について、一つ、実際的な問題を提供してみたいと思ふ。
「演出者」といふ言葉は、仏蘭西語の「metteur en sc[#挿絵]ne」の訳であるらしいから、これは別段、新しい意味に解する必要はあるまい。この言葉は、「mise en sc[#挿絵]ne」即ち「板にかけること」から出たものである以上、寧ろ、一般に用ひられてゐるこの言葉を土台にして考へることにしよう。
元来、演出といふものを、一つの纏つた仕事と解するやうになつたことが、近代殊に、自由劇場以後の習慣であり、また、それら運動の功績であつて、それまでは、寧ろ俳優の演技に附随する衣裳、舞台装置万端の工夫整頓を指すにすぎず、伝統を墨守する仏蘭西の一部劇壇人は、今日もなほ、「mise en sc[#挿絵]ne」と云へば、舞台装置のことと解してゐるくらゐである。旧称「舞台監督」は、無論 Regisseur の訳であつて、これは、独逸と仏蘭西とでは意味が違ひ、仏蘭西では、日本在来の「幕内主任」といふやうな役である。この意味から、最近の「舞台監督」が生れて来たのだとすれば、それはそれでいいわけになる。
何れにしても、今日でいふ「演出」なるものには、既に幾多の議論や主張が出てゐて、「演出法」とか、「演出学」とかいふ固くるしい研究も行はれてゐるやうだが、結局、一人の人間の頭で、好い芝居を作り上げなければならぬといふ己惚れを棄てない限り、どんな理論も学説も、机上に於てしか通用しないのだ。
私は、自分の乏しい経験と仏蘭西に於ける若干の実例に照して、次のやうな結論を導き出した。
一、演出法といふものは、上演すべき脚本の種類性質に応じて、常に、一定ではあり得ない。即ち、演出者の意図を舞台の表面に現はし、そのアイディアに効果の重点をおく方法と、演出者は、ただ舞台の蔭にあつて、作者の意図と俳優の演技に舞台の全生命を托し、この完全な調和融合を計ることをもつて満足する方法と、この両極端の何れにも同一の重要性をおく必要がある。
仮に、前者の方法を取る場合でも、演出者の気紛れから、脚本の本質的生命を無視し、俳優本然の欲求を斥けることは、演劇芸術への冒涜であり、これは、強盗や悪資本家の所業と選ぶところはないのだ。芸術の名に於て、他人の苦痛や迷惑を顧慮しないでよ…