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作品ID44493
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「都新聞」1934(昭和9)年2月25日、3月1、2日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-29 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     新劇を繞る論議

 近頃芝居に関する諸家の意見といふやうなものを瞥見すると、いろいろ興味のある問題が含まれてゐるやうである。が、それらの問題をいちいち取り上げて批判論議を試みるといふことは、やや大儀である。なぜなら、文字の上ではとかく誤解が生じ易く、その誤解を互に解き合ふためには、万事を棄ててかかつてもなほ足りないほどの努力が必要だからである。
 例へば、歌舞伎、新派が発展の道なく、これに代るべき新劇が近来生気を失ひ、このままだと、正統演劇の将来は誠に暗澹たるものだといふやうな考へが一般に拡がつて、これを救ふ道如何が、今や劇壇の彼方此方に論議されてゐる。
 そこで、かかる現象を呈するに至つたのは、それは今までの新劇が面白くないからで、その面白くない原因は、あまり高踏的であり、あまり文学的であり、あまり末梢神経的であり、あまり写実的であり、あまり深刻陰鬱であり、あまり淡々としてゐるからだといふやうな理由を挙げるのが常識になつてゐるやうだ。
 更に、進んでは、傑れた創作戯曲が出ないからだといひ、新劇俳優の演技がマンネリズムに陥つてゐるからだともいひ、宣伝が足りないとか、小屋が辺鄙だとか、甚だしきは、世間の同情が足りないからだともいふ。
 そしてなほ、この状態から新劇を浮び上らせるために、即ち一言にして云へば、芝居を面白くするために、若干の提唱が試みられた。曰くメロドラマの再認識、曰く大劇場主義戯曲の生産即ちスペクタクル的要素の新劇化、曰く舞台と見物席の境界撤廃、曰く戯曲の舞台性強調、曰く芝居は華やかに、おほらかに……等、等。
 さて、それらの意見が、今日の新劇壇に何等かの刺激を与へ、その進むべき道に若干の光明を投げかけたかどうか、私は不幸にしてその具体的な例を知らぬが、忌憚なく云へば、恐らくそれらの議論は一瞬の思ひつきであつて、さしたる根柢があるとは信じられぬ。
 私は、もう十年以来、演劇に関する意見を発表して来たが、それらは常に時流の眼から逸し去られてゐたやうである。人各々畑ありといふ言葉に偽りはないが、同時代の、等しく芝居に関心をもつ人間の間で、かくも興味の中心が喰ひ違つてゐるかと思ふと、つくづく、仕事の困難を感じさせられる。
 私は十年以来、同じことを繰り返してゐる。それはたしかに野暮な話であるが、当面の事情が変らず、自分の目標が変らない以上、新しい問題の起りやうがないのである。
 芸術的で且面白い芝居――これは私が十年前に別な言葉で云つたことである。
 新メロドラマの提唱は、たしかに反動的で面白いが、メロドラマに新旧があらうとは思はれぬ。メロドラマは、芝居そのものの如く旧く、また、衣裳の流行に似て新しいのである。言ひ換へれば、メロドラマは常に存在し、常に演劇の堕落を助けてゐる。
 大劇場主義に基く「スペクタクル」的要素の尊重は、現代の日本新劇、…

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