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なんとかせねばならぬ
なんとかせねばならぬ
作品ID44494
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「劇作 第三巻第三号」1934(昭和9)年3月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-04 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕はこの十年以来、芝居についての意見又は感想を書きつづけて来た。
 十年前と今日とでは、局部的には可なり事情が変つてゐるやうだが、劇壇全般の空気といふものは、依然、僕の「健康」には適しないもののやうである。
 僕の望んでゐることは、せめて、自分の周囲に、純粋な「演劇的雰囲気」を感じたいといふことで、そのために、重複を厭はず、同じことを幾度も繰り返し、少しでもその反響が現はれるのを待つてゐた。
 幸に、近頃になつて、本誌(「劇作」)に拠る若い友人諸君が、期せずして僕の目標とするものを目標とし、創作や評論の上で、着々有意義な仕事を見せてくれはじめた。
 ところが、芝居の社会といふものはどこの国でも同じだと見え、なかなか「本質的」な努力が一般の注目を惹かず、本誌の如きも、僕などが考へてゐたよりも、売れる部数が少いらしいのを知つて、甚だ心外に思ふのである。
 こんなところで本誌の提灯持をしてもなんにもなるまいと思ふから、それはやめるが、少くとも、現在の日本に於て、「本当の芝居」を求め、自らその道にはひらうとするものは、その精神に於て、今日までの「新劇」と絶縁せねばならぬ。
 それは、今日までの「新劇」が全く無為無能であつたといふのではないが、既に為すべきことをしつくして、生くべからざる時に生きる存在となつてゐるからである。
 どこを指して僕がかういふ批難を加へるのか、それは、従来屡々述べて来たことであるが、もう一度ここに更めてその要点を挙げれば、
一、戯曲の本質に対する認識不足。
二、「演出」なる観念の根本的錯誤。
三、俳優の素質及び演技に対する消極的見解。
四、「新劇運動」と「近代劇運動」の混同。
五、日本在来の演劇に対する批判の不徹底。
六、西洋演劇の移入に当り、そのなかに含まれる「西洋的なもの」と、「演劇的なもの」との区別がわからなかつたこと。
七、西洋劇の「結果」を取入れることに急で、「過程」を研究しなかつたこと。
 等々である。
 詳しい説明は略すが、周囲を見渡すと、多くの戯曲作家、演劇評論家、劇団関係者(無論俳優を含む)が、いつまでも、口で「新劇新劇」と唱へながら、以上の問題に無関心であることが察せられる。
 それゆゑ、大勢に於て、わが国の「新劇」は、三十年来、少しも進歩してゐないのである。
 嘗ては「新劇」の敵国であつた「歌舞伎」や「新派」が、相変らず劇壇の中心勢力であり、その勢力のなかに、動もすれば「新劇畑」の人々が捲き込まれ、吸ひ寄せられる奇怪な現象は、抑も、何に原因するかを考へてみるがよい。それもまだ、歌舞伎や新派が、この現象によつて、「多少でも」新劇的栄養を摂取するといふのならよろしいが、そんな気配は露ほども見えぬ。単に、一時的の便宜に、目先を変へるための装飾に、「新劇的材料」が使用されてゐるにすぎない。
 僕の嘱目する批評家内村直也君は、三…

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