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戯曲の生命と演劇美
えんげきのせいめいとえんげきび |
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作品ID | 44501 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集22」 岩波書店 1990(平成2)年10月8日 |
初出 | 「文学 第二巻第四号」1934(昭和9)年4月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-10-20 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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日本の新劇が、従来西洋の芝居をお手本として「新しい演劇美」を取り入れようとした事実は、今日誰でも知つてゐることであるが、西洋の芝居のどこが面白いかといふことになると、それは誰もはつきりしたことが云へず、結局、脚本の文学的価値と、「演出」なる特殊な技術にその重心をおいて、万事が解決されたものの如く考へてゐたのである。勿論、俳優の演技も問題にされないわけではなかつたが、これは要するに「演出家」の意図に従つて動作し、与へられた「台詞」を忠実に暗誦すれば、先づよいとされてゐた。俳優の素質及び才能は、甚だ消極的な標準を以て云々され、所謂舞台度胸のある素人が、意外な賞讃を浴びて演出家の鼻を高からしめ、歌舞伎乃至新派劇畑の俳優が、何等「新劇的」教養なくして新劇の舞台に立ち、これが、現代劇もこなせる俳優といふ折紙をつけられる有様であつた。
かかる俳優によつて演ぜられ、かかる演出家の手で「ひん枉げられる」脚本の文体は、当然、最初から重視される筈はないのである。翻訳劇は原作の「対話としての魅力」を閑却されるのが常であり、創作戯曲は勢ひ、一と通りの意味さへ通ればよい「白」で書かれ、かくて、舞台の「言葉」は、「動作」の従属的地位に置かれて、遂に「新劇」は演劇としての「生命」を希薄にし、やがて、演出家がゐなければどんな芝居もできない俳優を作り上げ、その演出家さへ、今になつて、役者がへたで芝居がやれぬと云ひ出した。
私は十年前、築地小劇場の旗揚興行を評して、外国劇上演に当つて、「言葉」を通じての戯曲美を逸する勿れと云ひ、俳優養成の先決問題なることを主張し、将来、家を建ててから柱を削るやうなことになるぞと予言しておいた。
当時私は、外国劇の上演に反対した覚えはない。創作劇が演出家の演出欲なるものを唆らぬといふ理由も首肯できた。しかし、外国劇の「本質的生命」を逸しては、外国劇上演の意義が甚だ局限されるのみならず、わが新劇が、西洋劇から学ぶべきものを学ばず終る不幸を極度に懼れたのであつた。
私のこの意見は、忽ちにして当事者を怒らせることにしか役立たなかつたが、今日の「新劇」が、十年一日の如く同じ水準に止つてゐるのを見て、私は、更にこの主張を繰り返さねばならぬ。
最近、ある新帰朝者の欧洲演劇観なるものを読む機会を得た。その人は、演劇の専門的研究を目的として西洋へ渡つたらしいが、その感想のうちに、次のやうな意味のことが語られてゐる。偶々巴里で観た芝居が、仏蘭西語のわからない自分にも非常に面白く感じられ、「白」の意味は通じないに拘はらず、俳優の演技を通じて、その芝居の筋や人物の感情もほぼわかり、全体として、まづ観劇の興味を十分に満たし得たと云ひ、且つ、さういふ結果からみて、「演劇に於ける言葉の役割といふものは極めて微々たるもので、眼に愬へる要素さへ保たれてゐれば、舞台は完全な魅力を発揮…