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左団次一行
さだんじいっこう
作品ID44558
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「悲劇喜劇 創刊号」1928(昭和3)年10月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-11-24 / 2016-05-12
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 歌舞伎劇を欧米の劇壇に紹介することは、たしかに有意義であり、その企てが案外容易に(実際はいろいろ困難もあつたらうが)果されたことは何よりよろこばしいが、露西亜の芸術家が、歌舞伎の実演から何を学び、何を感得したかを知る方法はないだらうか。一二新聞批評らしいものも伝へられはしたが、あんなものは当てにならない。
 露西亜人は、他の欧米人に比べて、東洋芸術の真髄に触れ得る国民だとは思ふが、いきなり、あの舞台を観せられて、何がわかるだらう。
 嘗て、仏蘭西の舞踊批評家が、一般日本人の怪しげな「剣の舞」なるものを見物して、少なからず感心した話を知つてゐるが、それと同時に、マダム・サダヤツコの芸を眉唾ものだと喝破した俳優もある。遠山満一座がチャツプリンに認められる時代に、左団次一行が露西亜で熱烈な喝采を受けたからとて、遽に知己を得たと悦ぶにも当るまい。
 一般の西洋人が、特に日本の芸術に興味をもつてゐると自惚れるのは間違ひで、黒坊のお面や、子供の楽書を恭しく壁に飾つてゐる自称芸術愛好家は、近頃、巴里などにある。これはつまり、近代主義の一面であつて、新しいのを縦に求めるかはりに横に求めてゐるだけである。
 僕は固より、日本の芸術を以て、世界に誇るに足るものだとは信じてゐるが、世界の方では、まだちつともさうは考へてゐないのみならず、やうやく浮世絵が珍重されてゐるとはいへ、それも骨董価値を外にして、どれだけ、芸術品としての取扱を受けてゐるか。
 歌舞伎劇を紹介するのは結構だが、それだけの頭をもつて行かないと、骨折損だといふ気がする。
 日本人には変な癖があつて、西洋人が歓びさうなものをわざわざ観せる――自分たちの観せたいものは外にあることを知らずにゐるのである。日本に西洋人がやつて来る。すぐ富士山の話をもちかける。桜の季節でなく残念だなんてお世辞を云ふ。ゲイシヤを見せようと云つて、「お茶の家」へ案内する。日光と京都と奈良と、鵜飼ひと茶摘み(?)と……あとは、座蒲団と箸と、下駄と人力車である。
 この癖がいつまでも直らないと、日本は遂にその正体を西洋人に知られずにしまふかもしれない。
 日本人が西洋に行く。必ず土産を持参する。曰く、浮世絵の翻刻、安物の扇子、輸出向の人形、曰く何、曰く何……。日本人は可愛いお土産を呉れる勇敢な国民なりといふ定義は到る処で通用してゐる。そのくせ、気まりが悪い時にはきつと膨れ面をするのである。
 そこで僕は、西洋人が日本のどういふところに興味をもつてゐるかを知つた上で、さういふ興味のもち方を軽蔑してやるだけの度胸が必要だと思つてゐる。
 某国の皇太子が、車夫のハツピを着て、梶棒を握つてゐる写真を新聞に出したまではいいが、それをいかにも平民的な行為であるかの如く感心してゐるに至つては、お人好しも極端である。そんなことをしたら、黙つて横を向いてゐるがいい…

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