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風邪一束
かぜひとたば
作品ID44568
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「時事新報」1929(昭和4)年1月3、4日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-11-30 / 2016-05-12
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 年久しくその名を聞き、常に身辺にそれらしいものゝ影を見ながら、未だ嘗てその正体をしかと捉へることの出来ないものに、風邪がある。
 風邪は云ふまでもなく一種の病である。多くは咽喉が荒れ、咳が出、鼻がつまり、頭が痛み、時には熱が上り、食慾進まず、医師の手を煩はす場合が屡々ある。
 凡そ今日では、病気の数がどれくらゐ殖えたらうか。病名がきまつて、病原のわからぬものも随分あると聞いてゐるが、病原がわかつても、予防ができず、予防はできても治療できない病気の名などは、あまり耳にしたくないものである。
 さて、風邪のことになるのだが、私は、医学上、此の病気がどう取扱はれてゐるか知らないし、何々加多児といふのは風邪の一種だなど聞くと、もう興味索然とするので、風邪は飽くまでも風邪又は感冒なる俗名で呼ぶことにする。
 ――なんだ風邪か。
 ――風邪、風邪つて、油断はならない。
 実際、風邪くらゐで大騒ぎをする必要はないといふしりから、風邪がもとで死んだといふ話をして聞かせる奴がある。
 尤もかの流行性感冒といふ曲者は、近時、「スペインかぜ」なる怪しくも美しい名を翳して文明国の都市を襲ひ、あつと云ふ間に、幾多の母や、夫や、愛人や、子供や、女中の命を奪つて行つた。同じ死神でも虎列剌や、黒死病と違ひ、インフルエンザといへば、なんとなく、その手は、細く白く、薄紗を透して幽かな宝石の光りをさへ感ぜしめるではないか。
 私も先年「恐ろしい風邪」を引いて、危く一命を墜とさうとした。
 ふらつと旅に出た、その旅先のことで、海岸の夕風に小半時間肌をさらしたのが原因だつた。それが、たま/\、さして懇意なといふでもないA氏の家で、三日間発熱四十度を下らないといふ始末なのである。そのまゝ、H博士の病院へ運ばれて、肺炎ときまり……その後は話すにも及ばないが、此の時の風邪で思ひ出すのは、そのA氏――画家にして詩人なるA氏の素人医学である。彼は自ら原始人を以て任じてゐるが、実は、近代的感受性と一種の唯物観とが極度にその生活を支配する趣味的ボヘミヤンの典型である。自ら帆走船を作り、フレムを工夫し、浴室を建て、マムシ酒を醸造し、家族の病気を診断し、手製の体温器を挟ませ、同じく手製のハカリを以て投薬し平然として快復を信じてゐる。種痘はペン先の古きを砥いで之を行ひ、注射の針は八回に及ぶも之を替へず、下痢止めには懐炉灰を飲ませ、細君のお産は三日目に床上げをさせるのである。
 此のA氏は私が病院にはいつても、度々見舞に来てくれ、H博士に様々な医学上の建言をしてゐたやうである。
 私は嘗て「奇妙な風邪」を引いたことがある。それは、台湾から香港に渡る船の中である。当時の打狗から香港まで、日本貨十円といふのが三等の賃金で、その代り、苦力と同房の船底である。あんまりひどいと思つたが、我慢をすることにして、莚の上に寝ころんでゐ…

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