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ジュウル・ルナアル
ジュウル・ルナアル
作品ID44570
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「近代劇全集 第十九巻」第一書房、1929(昭和4)年2月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-11-30 / 2016-05-12
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 劇作家としてのジュウル・ルナアルを識る前に、詩人としての――芸術家としてのルナアルを識らなければならない。
 彼は自ら称する如く、「幻象」の猟人である。自然を愛し、自然を味ひ、自然を呼吸しつつ、その全生涯を一種の厭世家として終始してゐる。
 芸術家としてのルナアルの偉大さは、彼が聡明なペシミストであるが為に、ただそれが為に、屡[#挿絵]凡庸な批評家を近づけない。
 彼は叫ばない。彼は呟くのである。
 彼は泣かない。彼は唇を噛むのである。
 彼は笑はない。彼は小鼻を膨らますのである。
 彼は教へない。目くばせをするのである。
 彼は歌はない。溜息を吐くのである。
 彼は怒らない。目をつぶるのである。

 彼は生涯にたつた七篇の戯曲を書いた。何れも喜劇の部類に属すべきものである。彼をして舞台に興味をもたせたのは、その交友中に、エドモン・ロスタン、トリスタン・ベルナアル、リュシアン・ギイトリイ等がゐた為めに外ならぬが、それらの云はば余技的な作品が今日もなほ悠々たる舞台的生命を保つてゐる所以は、彼が生れながら既に、非凡なる戯曲作家の「息」をもつてゐたからであり、彼が何よりも先づ「魂の韻律」に敏感であつたからである。

 彼は、自ら「自然によらなければ書かない」と宣言しながら、所謂自然主義者たるべく余りに現実の醜さを見透した。そして、その醜さを醜さとして描くためには、あまりに詩人であつた。
 劇作家としてのルナアルは、愈[#挿絵]古典作家として仏蘭西劇の雛壇に祭り上げられようとしてゐるが、彼の作品はまだそれほど老い込んではゐない。現代仏国の若き作家は、やうやくベックを離れてルナアルに就かうとさへしてゐるのである。イプセン、マアテルランク、ドストイエフスキイ、これら外国近代作家の影響の中で、わがルナアルは、静かに後進の道を指し示してゐるやうに思はれる。静かに――さうだ。彼の声は聴き取り難きまでに低い。しかし、耳を傾けるものは意外に多いことを注意すべきである。

 私が訳した二篇は、自然を愛し、人間を嫌ふルナアルの、最も多くその人間に接触したであらう巴里生活の記録と見て差支へない。
「日々の麪包」(Le Pain de M[#挿絵]nage)千八百九十八年三月、巴里フィガロの小舞台で演ぜられた。この時の役割は、ピエールに当代一の名優リュシアン・ギイトリイ、マルトに同名にして才色兼備のマルト・ブランデスが扮した。
 その後、「演劇の光輝と偉大さとを発揮せしめよう」と、古今の名作を選んで上演目録を編んだヴィユウ・コロンビエ座は、首脳コポオ自らの主演で此の作を舞台にかけた。
「日々の麪包」とは家庭で常食に用ふる並製の麪包である。それが何を意味してゐるかは一読すればわかる。
 二人の人物は、何れも有閑階級の紳士淑女である。巴里社交生活を代表する相当教養ある男女と見ていい。
「別…

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