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劇壇暗黒の弁
げきだんあんこくのべん
作品ID44591
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「新潮 第二十八年第七号」1931(昭和6)年7月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-12-16 / 2016-05-12
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 演劇の不振といふことを、近頃よく世間では問題にするが、それが悦ぶべきことか悲しむべきことかといふ議論になると、私には、殆んど見当がつかないと云つていい。
 一国の一時代に於ける演劇が、特に盛んであつたところで、少しも悦ぶべきことでなく、殊にその盛んでありやうによつては、寧ろ厄介千万だからである。
 興行者乃至俳優の側から云へば、劇場に見物が殺到する世の中を望んでゐるに違ひないし、それも亦、ある意味では結構なことに違ひないが、さういふ意味での演劇の隆盛時代なら、野球と活動とバアさへなければ、いつでも現出しさうに思はれる。
 やや尤もらしい説として、脚本の饑饉といふ状態を挙げるものもあるが、元来、どんな天才でも、「芝居を観ない」で戯曲を書く筈はなく、今日、「芝居を観ない」のは、独り天才に限らないのである。しかも、どんな芝居でも観さへすれば、「いい脚本」が書けるわけではない。ある程度まで「いい芝居」を観たものでなければ、たとへ「いい戯曲」を読むだけは読んだところで、決して、演劇の真髄を会得することはできないのである。ここでいふ「いい芝居」とは、それほど高級な芸術的舞台を指してゐるのではない。俳優らしい俳優が、人間のひと通りの感情を、相当巧みに生かし得た舞台なら、それでいいのである。要するに、俳優の表現能力が、ある程度まで豊富に発揮されてゐる芝居なら、ただそれだけで、劇作家の新しい幻象の糧となり得るのである。
 現在の日本に、さういふ程度の芝居は一つもない。まして、そんなものを観たといふ「作家志望者」は一人もないことになる。
 かう云ふと、直ちに反対論がもち上るかも知れない。現代の名優として、尾上某、市川某を認めないのかと。私は反問しよう。それらの名優は、世界的の至芸を諸君の前に見せるかもしれないが、果して、平凡な現代の一会社員に扮し得るか? 断じて扮し得ないのみならず、若し、強ひて、かくの如き役を演じさせたなら、その会社員は、飾窓の蝋人形的人物たることがせいぜいであらう。ただ、罪は、これらの俳優にあるのではなく、彼等がこの種の役を演ずることは、一種の自己冒涜にすぎないのである。
 それなら、新派の俳優はどうかといふと、これは、もう、あらゆる意味に於て、演劇の世界から落伍しつつある一団であり、そのうちの少数は、「新派から脱却する」ことによつてのみ、俳優としての生命を繋ぎ得る事実を痛感してゐる人々のやうに思はれる。
 今日苟も劇作を志すもので、これらの俳優が演ずる舞台から、少しでも、新時代の劇的イメエジを「吹き込まれ」るものがあつたら、私は不思議に思ふ。
 所詮、今日までの「新劇」とは、それらの俳優を標準とし、しかも、それらの俳優により「歪められ」た「現代劇」であつて、最早、今日以後の作家は、彼等を標準として新脚本の創作を試みることは、興味の上からも、野心の上からも…

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