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風俗の非道徳性
ふうぞくのひどうとくせい |
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作品ID | 44646 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集24」 岩波書店 1991(平成3)年3月8日 |
初出 | 「文芸春秋 第十八巻第九号」1940(昭和15)年6月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-02-14 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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一
時局が特に要求する国民の覚悟といふことについて私は考へた。わが国民全体がかうあらねばならぬといふ状態を想像してみる。人間がおほむねさうあり得る現実の諸条件を計算に入れたうへである。
現代の日本人がもつ強味と弱点とがまづ問題になるであらう。
強味はなんと云つても国家意識の旺盛なことである。敵愾心も強い。いざといふ場合、有無を云はぬ。一種の生死観によつて、身命を潔く擲つことができ、悲みに堪へる訓練ができてゐる。先づまづ戦争には誂へ向きの特性を具へてゐると云つていゝが、これをもつて直ちに好戦的だといふことはできぬ。
好戦的にみえるのは、極度の負けぎらひと国民文学の伝統に根ざす戦記風の表現のためである。われわれの戦記は、常にロマンチツクであり、戦ひを美化することに努めた。歴史は武将の行動として花さき、教育は武家の文化として実を結んだ。巷には侠気が根をおろした。
軍事専門家としてはともかく、国民自体は、他の如何なる国民にもまして本質的に平和を愛してゐる。その証拠はいくらでもある。しかも、他の如何なる国民よりも戦争を怖れない。大義名分は立ちどころ成り、どんなことがあつても負けぬといふ信仰があり、殊に今まで負けたことがないからである。
ところが、今度の事変では、国民に対する政府の警告が、しばしば発せられる。杞憂と思はれることもあるが、尤もと感ぜられる節も多々ある。理由さへわかれば、国民は納得する。理由の説明が足らぬ場合は、国民も半信半疑である。これ以上説明ができぬといふなら、強いて訊かうとは誰も思はぬが、その代り、国民の間にのみ通じるところの、血の温かさを常に言葉のなかに含めてほしい。
国民の一人として、私の政府への希望は、たゞこれだけである。しかしながら、私のひそかに思ふことは、国民をしてかゝる不満を抱かしめる原因と、当局が口を酸くして云はねば国民が自ら覚るところがなささうだといふことの原因との間に、実は、共通の現代風俗がみられるのである。
二
長期事変に処して国民全体の日常履み行ふべき道は政府の指示督励を俟つまでもなく、国民の常識として当然、知り、かつ守らねばならぬことであるが、それができぬといふところには、たしかにある弱点がひそんでゐるとみて差支ない。もちろん、国民の大多数は聖人でも君子でもない。たゞの人間である。あらゆる弱点をもつてゐるところの人間に過ぎないのであるけれども、一旦事にのぞんで、その弱点を克服できぬやうな人間がさう眼につくほどゐるとすれば、これは国家のために由々しいことである。
前にも云つたやうに、国民が十分に緊張せぬやうな外観を呈してゐるのは、政府当局も口でそれを云ふほどの緊張を見せてをらぬからでもあるが、一つには、現代の日本人は、国民的緊張を日常生活のなかに於て示す形式をもたぬからであつて、…