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『力としての文化』まえがき
『ちからとしてのぶんか』まえがき
作品ID44706
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集25」 岩波書店
1991(平成3)年8月8日
「岸田國士全集26」 岩波書店
1991(平成3)年10月8日
初出「力としての文化――若き人々へ」河出書房、1943(昭和18)年6月20日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-05-15 / 2016-04-14
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は最近二年間、大政翼賛会文化部の仕事を引受け、国民組織として整備すべき文化機構に関し、また、国民運動として取りあぐべき各種文化問題について、いろいろ自分でも研究し、各方面の意見も徴したのですが、なにしろその範囲は無限に広く、一つ一つの問題が極めて深い根柢のうへに立つてゐるといふことを知るにつけ、先づどこから手をつけるべきかといふことに屡[#挿絵]迷つたのであります。
 当面の要求に応じて、急速に処理すべき具体的な問題はまづ別として、最も重要なことは、国家百年の計を樹てるための基礎は、なんと云つても、「日本文化」の伝統を国民一人々々の精神のうちに蘇らせることだと信じました。
 とりわけ、次代を背負ひ、向上心に燃える青年諸君のために「文化」の意義を平明に説き、自国の「文化」について正しい観念を作つておくといふことは、是非しなければならないことで、これは、教育家の力に俟つところが非常に大きいのであります。
 国民学校高学年の教科書には、既に「文化」といふ言葉も出て来ることですし、少くとも今日のやうに、各方面でこの言葉が濫用されてゐる時代には、教育家が最もこれに関心を払ひ、自ら「文化」の指導者たる役割を果してほしいと、私は切に希望するのです。
 しかし、また一方、この日本語としては「生な言葉」の意味を自分勝手に限定するといふことは、教育者としては躊躇されるところもありませう。専門的には、哲学者の解説にも十分学ぶべきでありませうが、私のやうに、翼賛会文化部の責任者として実際の仕事に当つてゐたものが、国民運動の全貌を通じて感得した一つの「文化観」を、さういふ立場から述べてみるといふことも、たしかに、直接には青年諸君の、更に慾を云へば教育家諸氏の、幾分の参考になりはしないかと思ふのであります。
 一国の「文化」が高いか低いかといふことを考へる習慣は今日までもありました。しかし、その「文化」が、健全であるかどうかといふことは、あまり問題にされなかつたのです。こゝに、今日までの「文化」の推移、発展のすがたがあります。
「高い文化」を誇つてゐた国の、「文化の危機」がどこにあつたかといふと、その「文化」を脅やかす他の力ではなくて、寧ろ、その高いと移する「文化」自体のうちにあつたことが今や明らかになりました。即ち「高い」といふ価値標準のうちに、「健康」といふ条件がまつたく欠けてゐた事実を暴露したのであります。
 そこで、「高い文化」は不健康を伴ふといふ逆説のやうなものまで、一部の人々の間では信じられるやうになり、事実はそれほどではありませんが、その声だけは相当の力をもつて巷間に流れてゐます。尤も、西洋近代文化の一般から推して、既に彼地に於ても「文化」は進むに従つて頽廃の一路を辿るものと決めてゐる学者や思想家もあつたくらゐで、それはつまり、「文化」と「民族」、或は「国民」との一体…

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