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![]() せいねんのほこりとたしなみ |
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作品ID | 44710 |
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副題 | ――力としての文化 第四話 ――ちからとしてのぶんか だいよんわ |
著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集26」 岩波書店 1991(平成3)年10月8日 |
初出 | 「力としての文化――若き人々へ」河出書房、1943(昭和18)年6月20日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-06-14 / 2016-04-14 |
長さの目安 | 約 65 ページ(500字/頁で計算) |
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一
矜りとは自ら恃むところがあることであります。これさへあれば、何ものも怖れずといふ信念です。自負と云ひ、自尊と云ひ、いづれも、己をもつて高しとする精神でありますが、これはむしろ、相手に向つて自分を譲らないことで、いはば競争心の現れであります。しかし、矜りと云ひ、矜持と云ふのは、どちらかといへば、自分自身に対して、しつかりした信頼をもち、いやしくも自分で自分を辱かしめないだけの、ひそかな自信を胸にたゝんでゐることであります。
よく云はれることですが、自尊心といふものは、どうかすると、野蛮人や弱小民族の方が余計にもつてゐて、他から軽蔑されることを極端に気にするあの心理に通じます。これを劣等感のひとつの現れとみるのです。
ところで、さうとばかりは云へません。元来人並以上のものをもつてゐるにはゐるが、それを、たゞもつてゐるだけでは満足しないで、機会ある毎に人に認めさせようとするものがある。これが自尊心、自負心となつて現れます。最もひどいのが「己惚れ」であります。
かういふ人物は、自分を実力以下にみられるといふことが、堪へられない苦痛なので、普通、「負け嫌ひ」と云ふのがこれです。それが露骨に言動のうへに現れると、いさゝか滑稽味を帯びて来ます。それが「負け惜しみ」です。蔭で人が嗤つてゐるのも気がつかぬ有様であります。
自尊心は、以上のやうな場合を除いて、ほんたうに自分の名誉を保ち、面目を傷つけられないために、敢然と己を主張するやうな時、それは立派な行為となつて示されます。
これは、おなじ自尊心でも、矜り、または矜持と称して差支へないものです。
矜りとは、飽くまでも、自分の実力と真価について正しい認識をもち、しかも、ある大事な一点で何人にも負けを取らぬ自信と、その自信が自分に与へられた光栄とを深く心に秘め、如何なることがあらうとも物に動じない覚悟ができてゐることであります。
木村重成が一茶坊主の無礼に対して、「蠅は金冠を選ばず」と云つて、これを相手にしなかつた話を思ひ出してみませう。普通の武士ならば、相手が誰であらうと、身分の卑いものであればあるほど、無礼の程は容赦をしなかつた時代であります。武士の自尊心がこれをゆるさないのです。しかし、重成は、若年ながら、人並の自尊心などでなく、ちやんと名将の器としての矜りをもつてゐました。
二
日本の青年の矜りとはそもそも如何なるものでありませう。
申すまでもなく、それはまづ、世界に比類なき歴史の上に立つて、次の歴史を更に新しく書きつぐべき最も若々しい力としての矜りでなければなりません。
言ひ換へれば、第一に日本国民としての矜り、第二に、現代青年としての矜りが、そこでは一体となつて現れます。日本人ならば誰でももたねばならぬ矜りと、青年のみがもち得る矜りとが、渾然と融合したところに、日本青年男女の輝かしい矜…