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農村の文化について
のうそんのぶんかについて
作品ID44714
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集26」 岩波書店
1991(平成3)年10月8日
初出「農村文化 第二十三巻第二号」1944(昭和19)年2月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-06-19 / 2016-04-14
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 皇国農村の建設といふことが近頃叫ばれてゐる。いろいろな立場で農村問題が論ぜられ、それぞれの専門家が農村の振興について重要な役割を演じてゐたことは事実であるけれども、元来、日本の農村の「かくあるべき姿」といふものを、綜合的に、具体的に、農村の人々の胸にきざみつけるといふことが、今日まであまり試みられてゐなかつたやうに思ふ。それは恐らく、いはゆる農村の指導者の頭にも、農村の「在り方」が常に功利的にしか考へられず、早く云へば、第三者として、農村はかうあつて欲しい、または、かくあらしめたいといふ願望が主になり、農村自体の「夢」がそのなかに織りこまれてをらず、農村はかくあることによつてはじめて農村の誇りと満足とをかち得るのだといふひとつの映像が、いまだ何人の手によつても描かれなかつたことによるのであらう。

 しかし、このことは、日本の国土全体についても云へることであつて、農村だけが特にさうだと云ふのではないが、今更めて、皇国農村の建設といふ題目を政府として公にこれを取りあげ、農村の文化について各方面の識者が何等かの関心を払ふといふ機運が到来した以上、私は先づ何よりもこの点について一般の注意を喚起しておきたいのである。
 日本の農村の理想のすがたといふものを、何処で、誰が、どの程度に、真剣に想ひ描いてゐるかといふことを、私はほんたうに知りたい。なるほど、農村の理想のすがたなるものを、思ひつくまゝに、その条件を個条書きにしてみることは容易であらう。そして、それらの条件を、片つぱしから、ひとつひとつ、充たして行く方法について、机上の計画は樹てられないこともあるまい。ところが、さういふことをしてゐるうちに、いつの間にか、肝腎なものが消えてなくなつてゐることに気がつかぬのが、普通である。肝腎なものとは、現実を超えて「理想を夢みる情熱」であり、それぞれの条件の間に存在する微妙なつながりと、重さの関係との正しい把握である。
 この肝腎なものは、決して、専門的な頭脳や技術のなかにあるのではなく、国を憂ひ、郷土を愛する人格の豊かな感性のなかにあるのであつて、一種、詩人の天稟の如きものを必要とする。これを後天的なものとして見れば、かの広い意味の教養を基礎とする「文化的感覚」に外ならぬのである。

 由来、農村の問題と云へば、専ら経済問題であつた。健全なるべき農村の疲弊は、まことに国家の痛恨事である。農村の疲弊は経済的窮迫に原因するものとして、その緊急対策が講ぜられた。経済更生は、恰も、農村の理想化の如き錯覚を生ぜしめた。
 私はかういふ実例を知つてゐる。即ち、経済更生の模範村と称せられてゐる一農村が、年々死亡率、殊に乳幼児のそれの増加と、青少年の体位の低下をみつゝあるといふ現象である。また、ある模範村に於ては、一般に風儀が紊れ、青年の飲酒、夜遊びが盛んになり、附近の町の噂の種になつて…

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