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日本人とは?
にほんじんとは?
作品ID44732
副題――宛名のない手紙――
――あてなのないてがみ――
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集27」 岩波書店
1991(平成3)年12月9日
初出「玄想 第一巻第一~八号」1947(昭和22)年3月1日~12月1日、「玄想 第二巻第一~二号」1948(昭和23)年1月1日~2月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-07-04 / 2016-08-13
長さの目安約 201 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「大事なこと」とは?

 三年間の蟄居生活が私に教へたことは、「なにもしない」といふことの気安さと淋しさである。そして、この気安さと淋しさとは二つのものでなく、ひとつのものであり、それは表と裏、色と艶、光と影のやうな関係でつねに私の心を占めてゐた。もちろん、たゞこれだけの説明では誰にでもすぐにわかつてもらへさうにもない。「なにかをする」といふことにつきもののある精神の状態をひと口に云ひあらはすことはむつかしいが、そこにも必ずあるはずの明暗の交錯を思ひあはせてみれば、そんなものかと察せられるだらう。
 ところで、さういふ無為の生活において、ともかくも私が生きてゐたといふしるしは、デカルト風に云へば、いろいろのことを考へないわけにいかなかつたこと、たゞそれだけである。しかも、それらの考へはなにひとつ花咲かず、みのらず、たゞ雑草のやうにはびこつてそのまま今日にいたつてゐる。
 たまたま、S君の懇篤なすゝめがなければ、私はそれに手をつけることさへしなかつたらう。が、さて「なにもしない」ことの気安さはこゝで思ひ切るとして、一方の淋しさはいくぶん救はれるであらうか?
 実を云へば、それどころの話ではない。もうすでに私は、「なにかをしようとする」自分のうちに、底しれぬ別の淋しさを発見する。もの云へば唇寒しの、あの心懐とやゝちかい、しかし、それともいくぶんちがつた、一種の空虚感である。
 われながらまことに始末におへぬ気持であるが、それをいまこゝで追ひまはすことはやめよう。
 いろいろのことが、当節、いろいろの人によつて言はれてゐるのをみると、それは意識されてゐるゐないは別として、如何に今日はものを言ふのに危つかしい時代かといふことがわかる。危つかしいといふ意味は、いはゆる言論の自由不自由などといふことと関係のない、精神内部の問題である。
 さういふ風にみていくと、今日ほど、ものを言ふことが自分自身を試みることであり、さらに、自分を裸にして弄ぶにひとしいことを感じさせる時代はないやうに思ふ。それゆゑに、今日ほど、また、「沈黙」が良心にとつて易々たる時代はないとも言へるのである。
 私のさきに述べた気安さと淋しさは、まさにこゝから来る。

 難事を難事と気づかず、うかうかと行ふものは、往々、安易を安易と知らずして得々と行ふものである。この戯画的な風景をひとりわらふ資格は私にはもちろんない。
 ひとつの考へをたんねんにまとめる余裕がないのに、あへて未熟な思ひつきをとりとめもなく書きつらねようとするのは、たゞ、私は私なりに自らを鞭うつためである。
          *
 自分が日本人であることの宿命をつよく感じ、自分もろとも日本といふ国がこのまゝではどうにもならぬと思ひなやむやうになつたのは、ずゐぶん久しい前からである。
 なるほど、そのことは、いつぱし物の言へる日本人なら、誰…

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