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ラジオ・ドラマ私見
ラジオ・ドラマしけん
作品ID44846
著者岸田 国士
文字遣い新字新仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「ラジオ・ドラマ講座第二巻」山根書店、1952(昭和27)年4月30日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-04-22 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ラジオ文学という新しい様式について、私は常に興味をもち、なにか、原理的なものを発見しようと心掛けているのだが、放送局との関係も、別にそのために特殊な便宜を与えられているわけではないから、なかなか思うように研究もできないでいる。
 今日まで、ラジオ・ドラマと称せられている一種の形式も、自分だけの頭では、いろいろな空想と結びつけているが、それを実際に試みてみる機会さえ容易に得られないのである。
 ラジオ文学とは、言うまでもなくラジオという特別な機械的設備によつて、専ら聴覚にうつたえる文学を意味するのであるから、小説、劇、詩、雄弁というような文学のすべての種目がラジオ的に表現され、ラジオの機能を十分に発揮するように仕組まれていればよいわけである。そこで問題となるのは、やはり、われわれの「聴覚」がどこまで、いろいろなものを受けいれる力があり、それがまた、どこまでわれわれの感覚と精神とを動かす源泉、契機となり得るかということであろう。
 ラジオ・ドラマだけについていえば、「耳で聴く芝居」という制限がそのまゝ、特色となり、強味となるような、一種の劇文学をまず前提としなければなるまい。という意味は、「耳で聴く」という観念が先に立つのはよいが、そのために「耳を通して他のあらゆる感覚及び精神に愬える」という最も本質的なラジオ文学の要素を閑却してはならぬということである。例えば、対話による描写を主とすることは、一見ラジオ・ドラマの本質らしく考えられるが、しかし、その対話が、俳優の直接表情によつて生かされるような種類のものは、真にラジオ的とはいえないのであつて、寧ろ対話そのものが、おのずから明確な表情を連想させ、同時に人物及び生活の雰囲気を髣髴と浮び出せるように書かれていなくてはならぬのである。
 もう一つ大切なことは、ラジオ・ドラマに於いては、舞台劇や映画などと同様、「誘導的」なリズムを生命とするのだから、眼に見えないためにもどかしさを感じさせたり、そのために、幻想を運ぶ心理的「音色」の効果を鈍らせてはならぬのである。語調語勢の波動が、緩急抑揚の技術を滞りなく生かして行かねばならぬ。
 さて、こういうラジオ・ドラマの特殊技巧以外に、私は、内容的な精神美と作家的な「表現力」を要求する。勿論放送用として、あくまでも正しい意味の普遍性は望ましいけれども、そうかといつて、大衆向きを口実にする卑俗な趣味はなんとしても排斥したい。人情を取扱うのはよろしいが、安価なセンチメンタリズムでは困るし、社会諷刺結構であるが、ヒステリツクな独りよがりは禁物である。取材の範囲は自由であるが、感覚と思想には何処か新鮮なところがあつてほしい。何れにせよ、聴取者の大部を「退屈させない」なにものかを有し、その上、彼等の(即ちわれわれの)健康な魂に呼びかける若干の文化的意義を要求したい。
 ラジオ・ドラマはあく…

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