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映画のダイアローグについて
えいがのダイアローグについて
作品ID44849
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「文芸 第十巻第六号」1953(昭和28)年6月1日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-04-26 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 ある映画のダイアローグが、面白いか、面白くないかといふことを特に取りたてて論じてみたところで、それはあまり意味のないことである。なぜなら、面白いダイアローグは、面白いテーマや面白い人物の面白い組合せから生れるものだから、作品全体のなかに、作者の思想や才能の質として、既にその根がおろされてゐるわけであつて、ある作品の「ダイアローグが特に面白い」といふ場合はおほむね、その作品のダイアローグが、専門の劇作家の手に成り、その劇作家がまた、機智に富んだ喜劇作者である場合に限られてゐるやうに思ふ。
 フランス映画に例をとるとよくそのことがわかる。
 しかし、一般に、発声映画の魅力の大きな要素の一つとして、ダイアローグを計算に入れることは今日常識となつてゐる筈である。それゆえに、欧米のトーキーは、あらまし、ダイアローグを誰が書いたかがわかるやうになつてゐて、その責任を監督のみに負はせない仕組になつてゐる。
 いはゆる文芸映画と称せられる小説の映画化でも、原作の「会話」のある部分をそのまま使ふやうなことはしない。なぜなら、小説の会話はなんとしても映画の会話にはならないからである。その意味では、戯曲の会話も、そのままでは「映画的」とは言へない。
 ただ、戯曲作家ではないまでも、戯曲的な対話の書ける作家のダイアローグに対するセンスは、映画のシナリオ製作に当つて、大いに利用すべきだと思ふ。
 もし、それがうまくいけば、専門のシナリオライタアと、専門の劇作家との協力によつて、日本映画のダイアローグは、ある程度、現在の水準を高めることができるのではないか。



 私の知つてゐる限り、嘗て、PCL(たしか東宝の前身)が、劇作家田中千禾夫君を、ダイアローグの書き手として招聘したことがあつた。私は、その着眼は甚だ面白いと思つたが、会社は、田中君にどんな仕事をさせたか。ある映画のシナリオを見せて、ダイアローグの部分に手を入れて、もつと面白いものにしてくれと言はれても、私なら、それはできないと断る。
 つまり、さういふ仕事をさせるなら、シナリオの出来上る前にシナリオライタアと、もつと直接に相談をさせて、人物の構成やプロットの細部にまで立ち入つて、多少とも自由にある場面を設定させるやうにしなければ効果はあまりないのである。



 だいたい、文学形式としての「対話」は、日本では、非常に立ちおくれてゐる。その原因は、作家の側にだけあるのではなく、むしろ、わが国の社会生活の畸型性にある。言ひかへれば、日常の会話のなかに、徒らにゆがめられた対人意識がのさばつてゐて、豊かな人間性を織り込む努力を、それほど尊重しない風習がいつの間にかできてしまつてゐるのである。
 この風習と闘ふものは、常に庶民でなければならなかつた。そしてその庶民の表現に生彩を与へることのできたのは、わづかに、「世話物」な…

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