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岩田豊雄と私
いわたとよおとわたし
作品ID44854
著者岸田 国士
文字遣い新字新仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「文学座第五十六回公演・あかんぼ頌 パンフレット」1953(昭和28)年12月2日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-04-22 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一九二三年(大正十二年)九月一日、例の関東震災で東京の劇場はことごとく灰になつた。が、翌年の三月には早くも新劇の胎動が始まつた。最も代表的なものはいうまでもなく築地小劇場の旗挙げであるが、その傍らで、いくぶん違つた道を進もうとしたいくつかの小さなグループの一つに、新劇協会という劇団があり、当時、帝国ホテル演芸場と呼ばれていたささやかなホールで、細々と公演をつづけていた。
 わが岩田豊雄がフランス滞在を切りあげて日本に帰つて来たのは、ちようどその頃であつた。
 私も、その少し前に故国の土を踏んだのだが、岩田と私とはほとんど同じ時代にフランスの芝居を勉強しに行つたのに、遂にそれまで相識る機会はなかつた。
 彼と私とを結びつけたのは、ヴィユウ・コロンビエの廊下でも築地小劇場の楽屋でもなく、実は、この新劇協会の稽古場であつた。
 もつとも、その頃、第一書房から近代劇全集が出ることになつて、私も岩田も二、三の訳を引受けた。
 私は岩田の名訳「クノック」に文句なしに感服した。
 新劇協会の指導を菊池から委嘱されたのは私と関口次郎、高田保であつたが、特に、私は、岩田豊雄と横光利一の協力を求めた。
 岩田がパリで何をしていたか、私は、正確にも、詳しくも知らない。
 ただ、芝居という芝居はピンからキリまで観て歩いたらしいことは、二人が会つて話をするたびにだんだんわかつてきた。たいてい、同じ頃、同じような芝居を観ていたことはたしかだ。
 おそらく、ヨーロッパの芝居を専門に研究しようとするものでなければ見落しそうな種類の芝居は、みんな観ているので、私は非常に心強く思つた。ただそればかりではない。私がその中でも重要だと思うものを、彼もまた重要なもののなかに数え、その真価と精神とを見事につかんでいるのを知つて、これ以上信頼すべき同志はないと思つた。

 新劇協会の運動は、様々な事情で長くは続かなかつたが、最初菊池の手を離れ、ついでプリマドンナ伊沢蘭奢が病死するに及んで、協会は解散したけれども、私と岩田は、関口と語らつて、その研究所だけを承け継ぐことにした。
 岩田は戯曲の翻訳と演出のほかに、戯曲を二篇書いている。その一つ「東は東」などは、発表当時正宗白鳥から絶讃を浴びた。なにを感じてか、それきり劇作の筆を絶ち、専ら小説を書いているけれども、彼は、「自由学校」や「やつさもつさ」のような戯曲ならいくらでも書けると思つているに違いない。それをなぜ書かないのか、誰かひとつ訊いてみるといい。
 つい二、三日前、北軽井沢から小田原へ帰る途中、私は東京駅のプラットフォームで、ひよつこり彼に出遇つた。「稽古の帰りだ」といつて、やや得意そうに笑つてみせた。私を羨ましがらせるつもりらしい。その証拠に、そのあとで、「やつぱり演出は楽しみだよ」とつけ加えた。
 なるほど、彼の演出こそは、他の誰れ彼れが「戯…

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