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作品ID | 44855 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「岸田國士全集28」 岩波書店 1992(平成4)年6月17日 |
初出 | 「人生読本3」春陽堂書店、1954(昭和29)年6月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2011-04-30 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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一
笑うことのできるのは人間だけであります。勿論、「花笑い、鳥歌う」という言葉もありますけれども、これは形容であります。ときどき、例えば、馬が笑うというようなことを言うこともありますけれども、これは人間が笑うときとよく似た表情をするからそう言うだけのことで、人を笑わせ、又は人に笑われるのは人間に限られているということをまず申上げておきたい。そうでない場合は、人間が手を加えたもの、又は人間の真似をするもの、例えば猿のようなものに限られています。下手なおかしな音楽、滑稽な話などというものがその笑いの対象になります。「笑う門には福来る」と昔から日本ではよく言われておりますが、これは笑いというものが人生に取つて何か徳になるもの、人間の幸福と関係があることを証明しています。それは一体何故でしようか。極く常識的に考えて見ても、笑いのない人生は暗く冷たい。そして不健康であるように思われます。笑いは少くとも人生の窓であり、それは又希望と光明に向つて開かれた一つの扉とも言えるものです。併し、又笑いは軽蔑するという意味になることがあります。笑われると言えば馬鹿にされるということにもなります。併し笑いは時とすると勝利の合図でもあります。「最後に笑うのはどつちだ」ということを西欧では申しますが、その意味は結局こつちの方が正しいにきまつている、正しい方が正しくない方を笑うことになるから今に見ていろという意味であります。この場合笑うというのは勝利者として相手をちよつと軽蔑するという意味でありますけれども、こういう笑いは、成程得意満面には違いありませんけれども、余り感心したものとは言えません。同じ笑いにもこういうふうにいろ/\な笑いがあつて、なかにはどちらかと言えば明るいとは言い切れないものがあります。苦しみ、或いは悲しみと裏表になつているような笑いもなくありません。が、それは又それとしてここでは主に普通我々が求め探し、それによつて人生の光明に触れることができるような純粋な笑いについてまずお話をしようと思います。
何故、人間は笑うのかという問題、これは、なか/\むつかしい問題であります。古来たくさんの哲学者がいろ/\な分析や解説を試みていますけれども、どうもあまりはつきりしません。その中でさすがにフランス近代の大哲学者ベルグソンがなか/\面白い説明をしています。これからの私の話もその説をところ/″\借りようと思います。ベルグソンはその笑いの研究で、まずこう前置きをしております。「そも/\笑いの正体というものは理窟では容易に掴まえることができない。掴まえたと思うとぬらりくらりと逃げてしまう。実に始末に負えぬ代物だ。」と言つております。ベルグソンにさえそういう悲鳴をあげさせるのですから、私などの手には到底負えないにきまつております。が併し、それだけに相手にすればするほど、面白いわけであ…