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みかいけつのもんだい |
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作品ID | 44867 |
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副題 | ――新劇の決算―― ――しんげきのけっさん―― |
著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集28」 岩波書店 1992(平成4)年6月17日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2011-11-09 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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一
編集者は私に「新劇の総決算」といふ課題を与へた。私に特にこれをせよと命ずる正当な理由のあるなしは別として、私は甘んじて、それに応じてみる気になつた。それは、自分自身の総決算を事の序にしてもよいと覚悟をきめたからである。
二
新劇はこれまでなにをして来たか? この問に答へるためには、先づ、新劇とはなんであつたかを明らかにしなければならぬと思ふが、その範囲をここで限定してみてもはじまらぬ。ただ、どうしても必要なことは、その性格に二つの面が重なり合つてゐることを注意することである。即ち、純粋な芸術運動としての面と、芸術を通じての広い文化運動としての面とである。いづれも、ある種の革新を目指してはゐるが、そして、それが同時並行的なすがたを示してゐるものもあるが、大体に於て、この二つの面が当事者によつても、また、それを享け容れる側に於ても、無意識に取扱はれ、この二つが一つのものであるかの如き錯覚に陥つてゐたこと、従つて、運動の方向が絶えずヂグザグの道をとり、時には、互に伸びるべきものを圧殺する結果を生じたことを認めないわけにいかぬ。
坪内逍遥から小山内薫までの新劇の指導者によつて、新劇の性格がほぼ決定されたわけであるが、それは、日本在来の演劇になにものかを附け加へ、更に、時代の要求に一歩近づくことから始められたのは当然として、そこから生れたものは、観念として「歌舞伎でも新派でもないもの」でありながら、実質的には、西欧劇の模倣を出発点とする精神と形式との跛行状態であり、芸術的にも文化的にも、民衆の生活に結びつかぬ根無草のやうなものであつた。
その頃、ある老巧批評家が、多少無責任な放言の体を装つてではあるが、「新劇」を評して「新あつて劇なし」の警句を吐いた事実を思ひ出す。
これに対して、いくらかの反省が加へられたことは、今日の新劇をともかくも別の軌道に乗せ得た原因である。非常に素朴な反省ではあつたが、それは、「舞台の真実と虚構」についてであつた。そして先づ、演劇の本質を正しいリアリズムの框の中で捉へ、西欧近代劇がそれを一応成し遂げたやうに、われわれもまた、それを乗り越えて新たな道を探らうとする実験が試みられたのである。演劇に於けるリアリズムの精神と技術とは、わが演劇界に於て、ただ一人の久保田万太郎を除いては、ほとんど未知の世界であつたことを、私は断言する。つまり、久保田万太郎の戯曲は、当時、演劇的には最も先駆的な役割を演じてゐたのである。
演劇の革新は、演出の工夫や、戯曲の変貌にのみ俟つことはできぬ。結局は、俳優の素質の飛躍、言ひかへれば、「現代を呼吸する」俳優の出現に期待しなければならぬといふ見解を、私たちはもつに至つた。ここが、わが国に於ける「新劇運動」の一つの特殊な立場を語ることになる。芸術運動としての目標はしばらく卑近なリアリズム完成におき、ひ…