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熱海線私語
あたみせんしご |
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作品ID | 45216 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房 2003(平成15)年5月10日 |
初出 | 「日本評論」1935(昭和10)年12月 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2006-06-04 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 33 ページ(500字/頁で計算) |
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一
一九三四年、秋――伊豆、丹那トンネルが開通して、それまでの「熱海線」といふ名称が抹殺された。そして「富士」「つばめ」「さくら」などの特急列車が快速力をあげて、私達の思ひ出を、同時に抹殺した。帝国鉄道全図の上から見るならば、僅々十哩? 程度の距離であるが、生れて四十年、東京と小田原、小田原と熱海の他は滅多に汽車の旅を知らぬ蛙のやうな私たちにとつては、憶ひ出の夢は全図の旅の夢よりも深く長かつた。私たちは旧熱海線の小田原町に生れ、私の最も古い記憶に依ると、小田原ステーシヨンの広場のあたりが祖父母や母と共に私が育つてゐた家の竹藪に位ひした。私は未だ小学校へも通つてゐなかつた。
「近頃は、どうも人車つてえ便利なものが出来たんで熱海行はすつかり楽になつたが。」
熱海行の朝(私の記憶では、蜜柑の穫収れが済んだ頃だけがあざやかであるが――)といふと、私たちは暗いうちに起きて竹筒ランプの傍らで朝餉に向ひ、祖父は自家製の酒を一本傾けながら、
「つい此間までは駕籠か草鞋がけだつたんだからな。それが何うも芝居見物にでも行くようなこしらへで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでもお午時分には着いて仕舞はうつてんだから大層なものさ。」
と得意さうだつた。得意といふのは、人車鉄道株式会社といふものゝ祖父は相談役か何かであつたゝめに、私たちが人車なんか……と、うつかり軽んじようとすると、不機嫌であつた。飽くまでも文明の利器として、認識しなければ面白くなかつたのであるが、母や私は鉄道馬車で国府津へ赴き、煙りを吐く汽車に乗り慣れたので、従令線路の上を走るとは云ふものゝ人間が後おしをして滑走する人車などゝいふ鉄道に驚くわけには行かなかつた。居眠りをしながらでも――などと祖父は極めて安楽さうに吹聴するものゝ、おそらく十人乗りぐらひの箱車を四五人の被布姿の運転手が力を合せて後おしするのであつたから、ちよつとした勾配に差しかゝつても、歩く人よりも遥かに鈍くなり、降りとなれば、運転手達は虫籠にとまつた蝉のやうに踏台に吸ひつき、その間こそは正に一瀉千里、「つばめ」か「さくら」のやうに実に猛烈な勢ひで砂塵を巻いて、滑り落ちるのであつたから、母は私を抱きすくめて震へて居り、あんなことを云つてゐた祖父にしろ思はず婆さんと声を合せて御題目を唱へるやうな始末だつたから、凡そ安楽な気遣ひは絶無だつたのだ。登りとなれば、大概の乗客がその速力の遅さに業を煮して、先へ立つて歩いたり、中には後おしの弥次馬に成る者さへあるのだから、そんな車の中で居眠りなどして居られる不人情家は見当らなかつた。
町端れの停車場まで、私は爺さんと合乗りし、そして婆さんと私の若い阿母が、浅黄ちりめんの高祖頭巾を被り、毛布のやうに大幅の流行肩掛をかけて二人乗の俥に並んだ。姑と嫁がさも/\仲睦しいといふ、さういふ示威行為が流行した…