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三作家に就ての感想
さんさっかについてのかんそう |
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作品ID | 45278 |
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著者 | 南部 修太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「文章倶樂部」 新潮社 1920(大正9)年3月1日 |
初出 | 「文章倶樂部」新潮社、1920(大正9)年3月1日 |
入力者 | 小林徹 |
校正者 | 鈴木厚司 |
公開 / 更新 | 2007-12-08 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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一、有島武郎氏
私は有島武郎さんの作品を讀んで、作品のうちに滲んでゐる作者の心の世界といふものゝ大きさや、強さといふものを深く感じます。そして、線の非常に太い、高らかなリズムをもつてゐるやうな表現力が鋭く心に迫つて來るやうな氣がします。そして、如何にも作者が熱情的で、直情徑行的な人であるやうな氣持がしますけれども、最う一歩進めて、作品の底を味つてゐると、寧ろ作者の理智といふものがその裡に一層強く働いて居るやうな氣がします。即ち或作品では、例へば、「石にひしがれたる雜草」と云つたやうな作品では、主人公の心持の限界を越えて、作者の理智がお芝居をし過ぎて居る爲めに、その心持がどうしても頷けなくなつて來る。で、また作者が愛を熱心に宣傳して居るやうな場合にでも、寧ろその理智を以て故らにそれを力説しようとする爲めに、どうかするとその愛は、作者の心から滲み出たものではなくて、宣傳の爲めに宣傳してゐると云つたやうな感じがする事があります。しかし、又一方から見ると作者の愛が實際にその衷心から滲み出てゐる例へば「小さき者へ」の中に於ける、子供に對する主人公の愛といつたやうな場合には、そこに釀されてゐる實感の強さから、可成り感動して作品を讀む事が出來ます。で、一體私は有島氏のその作品竝に作者の心の世界に對して共鳴も有ち、その眞摯な作風に對して頭を下げてゐる者ですが、時に人が、有島氏は僞善者ではないか、非常にその創作的態度に於て、進撃的で、意志の強さうなところがあり乍ら、どつか臆病なところがあるではないかといつたやうな言葉を聞かされた事があります。これは無論作者に對する一種の僻見かも知れませんが、事實に於ては、私も氏の作品に強く心を惹かれ乍らも、どこかにまだ心持にぴつたり來ない點がないではありません。その隙間は氏が熱情的な理想家のやうに見え乍ら、その底に於ては理智が[#「理智が」は底本では「理智か」]働[#ルビの「はたら」は底本では「はだら」]き過ぎるといふ結果から、周圍に對してどうしても左顧右眄せずには居られないといふところがあるかも知れません。從つてその思想や人生觀の凡てを愛を以て裏づけて行かうとする氏の作家としての今後は、どんな轉換を見せて行くかも知れませんが、その理智の人としての弱點から釀されて來る何物かは、可成り氏の行手にいろ/\な曲折を出すだらうと思はれます。
二、里見[#挿絵]氏
里見[#挿絵]さんの作品を讀んで、一番感心するのは、その心理解剖の手腕です。批評家がそれを巧すぎると云つた爲めに、氏は巧すぎるといふ事が何故いけないのだと云つたやうな駁論を書いて居られましたが、確かに巧すぎるといふ事丈けは否定出來ないと思ひます。何故ならば、氏の心理解剖は何處までも心理解剖で、人間の心持を丁度鋭い銀の解剖刀で切開いて行くやうに、緻密に描いて行かれ…