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駆ける朝
かけるあさ
作品ID45282
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「新潮 第二十六巻第八号」新潮社、1929(昭和4)年8月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-04 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「苦労」は後から後から、いくらでもおし寄せてくる。どんな風に撥ねかへし、どんな風に享けいれるか? に、思案がいるが、思案の浮んだためしがない。
 ――早朝に起きる。机に、十八型程の大きさの磁石が載つてゐる。文鎮の代りである。此間まで懐中時計を重しに使つてゐたが、悲しい時には、僕にはあのセコンド針の小刻みの音がとても息苦しくなるのだ――そんなことをはなしたら理学土の友達が苦笑して、これを呉れた。――「これなら安心だらう。引力の続く限り針は……」
 なる程僕は、この頃はじめて此処のSとNの方向を知つた。
 水々しく青葉が輝いてゐる壮麗な朝だ。
 シヤツ一枚になつて、白靴を穿いて裏口から駆け出す。――針を見て、指すところのSの方向へ――と思つた。
 犬が夢中で追ひ駆けてくる。真似をして妹も弟もシヤツ一枚になつて伴いてくる。牛乳配達の車がガラガラと帰つて来る街を駆け抜けて、丘をのぼる。
「S――S――S――!」
 犬が吠えた。犬を呼んだのではない、方向を誤まらぬ意気添えだつたのに、あゝ彼の呼名はSだつたか! エスは有頂天になつて僕の脚にからみつかうとする。
 急な坂を一息に駈け昇つてしまふ。落葉樹の森に入る。
 森に育つたロバートは、森を出て、人生の行手を定めなければならなかつた――。
 森――で、不図思ひ出した。誰の作で、何んな題かも忘れてゐるが。
 ロバートは森を出て、山を越え、谷を渡りして、美しい海辺に行き着く。彼は妻と子と三頭の家畜と、そして一袋の金貨とを携へてキヤラバンの一行に加はる、青草の豊かな地に新しい居住地を見出すために勢ぞろひをした一隊である。彼等は出発の用意が整つて、第一の脚を踏み出さうとした時、輝いてゐる海を眺めると、洋々たる希望が胸に充ち溢れて思はず一勢に歓呼の声を挙げる! 勿論若いロバートも夢中で両手を拡げて叫んだ。
 長い旅を終つて安住の地に住んだロバートが、一生を振り返つて、最上の悦びは何だつたらうと考へたが、あの海に出そろつて歓呼の声を挙げた時の爽々しさに並ぶべき悦びは決して見出されなかつた――といふ。
 厭な、悲しい主題だ、御免だ! と思ふ。慌てて森を駆け抜けようとする。
 節面白く口笛を吹く――夜があけた、鳥が鳴く、鍛冶屋も一緒に眼を醒す、火をおこせ、槌を打て、トンテンカン、トンテンカン、働け働け、鳥と一緒に働け、愉快な森だ、そら打て、そら打て、鳥よ、啼け、一日一杯面白い! ――そんな調子で笛を吹く。「森の鍛冶屋」だ。駆ける脚の速くなること、速くなること!
 気づいて、振りかへつて見ると、妹も弟も姿が見へない。エスだけだ。――だが、呼んでゐる。声が山彦になつて行手の蜜柑畑の方に響いてゐる。
「兄さんの……馬鹿ア――」
「狐が出るわよう――」
「バウワウ、バウワウ……」
 知らない、駆けろ駆けろ、声などに振りむかずに――「山の住居か…

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