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海路
かいろ |
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作品ID | 45312 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房 2003(平成15)年5月10日 |
初出 | 「令女界 第十四巻第六号」宝文館、1935(昭和10)年6月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-12-04 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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「登志さん、果物でも持つて行つたらどうなの、雑誌ばかり読んでゐないで……」
ナイフや皿の用意をととのへながら、母は登志子を促した。
「キクに言つてよ。あの集りの中へ這入つて行くのは、あたし何だか気まりがわるいのよ、あたしが行くと皆が変に黙つてしまふんですもの……」
「お前さんが、あんまり気どつてゐるからぢやないの。」
「まあ、ひどいわ、母さんたら……」
二人が、そんなことを言ひ合つてゐると、やがて離室の窓から、
「登志子、登志子――ちよつと来て呉れないか?」
と兄が呼んだ。
「何あに……?」
「好いから、ちよつと来て呉れよ。」
――兄の部屋には、今夜もまた七八人もの友達が集つてゐた。兄と共に、一年前に文科大学を卒へた者や、未だ文科の学生である幾人かが、このごろ毎晩のやうに兄の部屋に集つて、文学の同人雑誌を発行する相談で夜を更してゐた。――その晩も、明るいうちから彼等はさかんに議論か何かをたたかはせてゐるらしかつたが、そのうちに、やがて、一同は疲れて眠つてでもしまつたかのやうに、森と静まつてゐた。そして、折々、
「そんなの駄目だよ。」とか「それは、あんまり大げさだ。」
などと言つて、わつといふ笑ひ声が挙つたりしてゐた。
登志子が果物の盆を重さうにささげて、
「兄さん、開けてよ。」
と襖の外から声をかけると、笑ひ声が一勢にぴたりと止つた。煙草の煙が湯気のやうに部屋一杯に立ちこめてゐて、姿も定かではないほどであつた。――膝を抱へて、凝つとうづくまつてゐる者、腕組をして、屹ツと天井を睨めてゐる者、さうかとおもふと仰むけに倒れて、自分の喫す煙草の煙をぼんやりと眺めてゐる者、縁側の籐椅子にのけ反つて星空を見あげてゐる者……など、皆が皆、おもひおもひの姿で、恰で彫像か何かのやうにおし黙つて、余つ程深い瞑想に沈んでゐるといふ風な余つ程深い瞑想に沈んでゐるといふ風な、不思議な光景だつた。
「何あに、兄さん――どんな御用なの?」
登志子は、わけもなくあかくなつて兄に訊ねた。
「あのね、はじめての者に紹介するよ。」
床柱に頭をもたせかけて泰然と腕組をしてゐる村木光夫が、まはりを見廻しながら、
「大滝の妹さんの登志子さん――さつきも言つた通り、登志子さんは来年からは女子大の英文科に入つて、ゆくゆくは作家にならうといふ志望を抱いてゐる人で……」
と重々しい口調で呟いだ。村木の言ふ通りに違ひなかつたが、何だか登志子はからかはれてでもゐるやうな気がして、急に胸先が震へ出した。
「僕、小原敬吉といふんです。」
籐椅子で星を眺めてゐた学生服の青年が、ぶつきら棒にあいさつすると、部屋の隅のソフアに、ほんたうに眠つてゐるかのやうに頭を抱へてまるくなつてゐた青年が、むつくりと起きあがつて、
「僕、塚原竜太郎……」
と、ぎよろりとした丸い眼を見張つて、まるで憤つてでもゐるやう…