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疑惑の城
ぎわくのしろ
作品ID45314
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「四季 第二冊」四季社、1933(昭和8)年7月20日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-03 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ――嘘をつくな、試みに君の手鏡を執りあげて見給へ、君の容色は日増に蒼ざめてゆくではないか、吾等は宇宙の真理のために、そしてまた君が若し芸術に志すならば、芸術のために蒼ざめるべきではないか――。
 こんな風な調子の手紙を三枚四枚五枚と書いてゆくうちに夜は白々と明けてきた。サンタ・マリアの暦をはぐと、四月の十二日(一九三三)であつた。
 暦の端には、
「聖女ローザ童貞――我汝等に告ぐ、総て其の兄弟を怒る人は裁判せらるべし。」とあつた。
 ふるえる私の憤りは止まなかつた。
 私は封筒をふところにした寝間着の襟を掻き合せ、左右の手にガマ口とステツキを握つて深い朝霧の中に飛び出した。前の晩に芝居見物に上京して来た私の母親が、私の子供に与へた子供の学資金と、差押への札を貼られてゐた私の税のために私に借したいくらかの紙幣がそのガマ口の中に這入つてゐた。
 ポストの前に、私は恰もポストのやうに突つ立つて稍暫く考へたが、やはりこの手紙は彼に手渡した方がおだやかだと思つた。彼は嘘ばかり吐いた「偽大学生」であつたが、少くとも私に好意を抱いて朝となく夜となく私を訪ねてゐる以上、これを郵便に托するのは残酷過ぎると思つた。私は憤りの手紙を人に贈つた経験は二十代のはぢめに一度だけであつた。
 白く深い朝霧だつた。街は白い眠りに閉された化石であつた。私はポストに凭り掛つて、眼に見えぬ城を空想した。そして漸く一台の車を呼び止めることが出来た。
「善良」といふ言葉のシムボルにふさはしい彫刻の面に似た顔だ――と私は、つい此間彼と知り合ひになり、彼の言葉を凡て信ずるがままに、その容貌を心のうちで評したばかりであつた。彼ははぢめ創作が志望ではないと云つてゐたので、私は珍らしく小説家同志ではない交遊といふものに別種の悠やかさを覚えてゐたのであるが。
「僕は凡ゆる人の言葉を、凡てそのまま」と私はその手紙の中で思はずそれに傍点を打つた。「在りのままに信じるのを掟としてゐるのだ。何時誰が、凡ての現象を目して疑ひを抱くほどの暇があるものか」と。
 しかし、もうその心の乾かぬ間に、忽ち彼の顔が「嘘言者の面」たる偶像として、はつきり其処に在るのを、見ぬ振りが私には能はなかつたのだ。どんな、ひよつとこな面を観ても私は滑稽とおもつたことはないが、観照は出来る。けれども「善良の面」と信じたものを、一朝にして「悪の面」と見直すためには相当な時間が私には必要であつた。凡て見る者の笑ひを誘ふものは「悪」の表象であるとはアリストテレスの「仮面喜劇論」中の言葉であつたが、私は「悪の面」にも「善の面」にも笑ひ如きは誘はれぬのだ。「滑稽」は終ひに私にとつては「笑ひ」程度の感覚ではなくて、単に絶体の存在であるばかりなのだ。
 感情は収つても、あれとこれとはまた別種だと私はふところの手紙を叩きながら、未だ牛乳屋の車さへも通つてゐない薄…

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