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繰舟で往く家
くりふねでゆくいえ
作品ID45315
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「若草 第十一巻第三号」宝文館、1935(昭和10)年3月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

春来頻リニ到ル宋家の東
袖ヲ垂レ懐ヲ開キテ好風ヲ待ツ

 艪を漕ぐのには川底が浅すぎる、棹をさすのには流れが速すぎる――そのやうな川を渡るために、岸から岸へ綱を引き、乗手は綱を手繰つて舟をすすめる、これを繰舟の渡しと称ふ。
 その娘の家の裏門は川ふちに開いて、繰舟で向ふ岸の街道に渡つた。橋は見霞む川下の村境ひのはてであつたから、その繰舟はあたりの人々にとつてもこのうへもない近みちであつた。
「春来頻到――」
 離室の書院の[#挿絵]に読める雄揮な文字を指差して娘は、わらひ、
「こんな言葉までが苦しくなるわ、とり換へてしまはうかしら――」
 と、もう涙をためてゐた。「こんど来る時には、メンデルスゾンのものを買つて来てね、いつそ愁しい方が慰めだわ、新しい、騒々しいのは厭……」
「袖ヲ垂レ……か。」
 青年も口吟んで、胸が溢れた。学生時分の洋服姿を止めさせられて、田舎に戻つてゐる娘は島田を結はされ、紫地に大矢羽根絣の長袖を着て、画に見る御殿女中のやうに立矢ノ字に帯を結んでゐた。青年が訪れると、その書斎の、竹筒のラムプを二つにして、二人は夜更まで語らつた。――彼が思はず頬をおしつけようとすると、
「駄目、未だ駄目……」
 と唇を結んで、痙攣的に全身を縮めながら彼の膝に突つ伏した。――「だつて、苦しくなるんですもの。許してよ、許してよ。」
「左うだ、僕だつて左うだ。御免よ、ね、妙ちやん……」
「三月になつて――お雛見の晩……」
「迷信的だね。」
「だつて、その方が綺麗ぢやないの、一生の思ひ出になるんだもの――大事にしておきたいわ。」
 春になれば東京の郊外に家を借りる筈だつた。支障が生ずれば娘は家出を決心してゐた。青年は三月まで学生だつたが、務めぐちはもう決つてゐた。娘は東京へ移つたら、髪を切つて、もう一度洋服が着たかつた。
「お雛様はこの部屋に飾るんだつたかしら?」
「いいえ、今年だけはお名残りに、この自分の部屋に飾つて、誰にも見せたくないのよ――キミにだけ、泣き顔を見せたいのよ。雪洞を灯けるのよ――夜更けたら、廊下の扉に錠を降してしまふわ。川上のね、滝のある村から桃の花が届く筈なのよ。花を活けて、香水を撒かう。姿見の曇りを綺麗に拭つて、あたしはね、あたしは、ほんとうに……どんな顔をするものか、自分の容子を、はつきりと見覚えておきたいのよ。……まあ、変なことを言つてるわ、そんなことばかり考へてゐるので――嫌ひになりはしない?」
「苛めないで呉れよ。琴でも聞せて貰ふことにしよう。」
 窓の下は深い池だつた。

 三月のはじめに丁度、二日続きの休日に出遇つた。彼は休みがなくても、勿論夢中で、眠れもせぬ夜がつゞき、幾日も前から土産のレコードをあつめたり、はじめて結ぶネクタイを選んだりした。継母との折合が次第に悪く、どうせもう家を棄てる覚悟がついてゐるから――そんな意味の娘…

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