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素書
てがみ
作品ID45321
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「新潮 第二十三巻第九号」新潮社、1926(大正15)年9月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-31 / 2014-09-21
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「マダムの御気嫌はどう? 今日は?」
 山崎の顔を見るなり私は、部屋の入口に突立つたまゝ凝つと、訊ねた。――「君の顔色には何だか生気がない、病的といふほどのことではなしに……。眼つきが何となく悸々としてゐる、今日も!」
「さうだらう、俺は――」と山崎は、私がもつとさういふ風な彼に関する批評を続けるであらうことを、別段に何の不安を持つこともなく待ち構えるやうに、ぼんやりとして、
「どうも忙しい。」と素気なく呟いだ。
 私は続けなかつた。――「俺は?」
「君は何時もの通りだ。余ツ程急いでゞも来たのか、赤味を帯びてゐる。健康さうだ、変に――」
 山崎は、さう云つてゐたが、隣室の気はひをでも窺つてゐるかのやうに眼に落つきがなかつた。
 私たちは、挨拶の代りに斯んなことを云ひ合ふことが屡々だつた。尤も夫人のことを訊ねるのは私の方が何時も主だつた。――「どう? 今日は、マダム?」
「うむ、まあ……」山崎の返事や態度は何時も決つてゐた。彼は、浮かぬ様子で煙草を喫してゐた。
「俺は、この儘直ぐに帰つても好いんだよ。たゞこの辺まで当のない散歩に来たまでのことなんだから……」
「この頃の君は、余程散歩が好きになつたらしいね、俺とは反対だ。」
 訪ねられて迷惑なのか、と思ふとさうでもないらしく山崎は、不器用な手つきで煙草をすゝめながら、
「まあ、掛けろよ。どうせ君は退屈で弱つてゐるんだらう。散歩なんて如何でも好いぢやないか。」
 さう云つて、この前私が彼に会つたのは何日位前か忘れたが半月とは経つてゐないその時もさうだつたが、あれが未だ治らないのかしら、それにしては治りが馬鹿に遅い――などゝ私に訝しがらせた、頬の猫の爪にでも引つかゝれたやうな鮮やかな傷痕を物憂気に撫で回してゐた。――長居の客があつて、つい山崎が夫人をないがしろにして陽気に騒いだところ、客が居る間に彼は、突然夫人に飛びつかれて酷い目に合されたのだ。
「この前のあれが、未だ治らないのか?」と私は、山崎の頬を指差して訊ねた。
「あれは治つたが――」
「また?」
「この前君が来た時は、お互ひに大分酔つ払つたな。君は、吾家へ着いたら夜が明けやしなかつたか?」
 山崎は、悲し気にさう云つて、それ以上は何か口のうちでブツブツと小言を云つてゐた。
 実際の私は、別段散歩好きになつたといふわけではなかつた。当なしに外出するといふ習慣は私には未だ無かつた。この日にしろ私は、山崎を訪れる目的だけで外出したのである。この前の時は、実際散歩に出かけたのであるが、そして山崎は訪れまいと思つたのであるが、ふら/\と夢でも追ふ程の心の遣り場を失つて、つい彼を訪れた。そして、今日と同じことを弁解した。
「君の都合で俺は、直ぐにこの儘引き返しても好いんだ。たゞ当のない散歩に来たゞけのことなんだから。」
「俺は酒を止めやうと思つてゐるよ、どうも酒…

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