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![]() けんきょう |
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作品ID | 45339 |
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著者 | 国枝 史郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「国枝史郎伝奇全集 巻四」 未知谷 1993(平成5)年5月20日 |
初出 | 「山形新聞」1936(昭和11)年3月~8月18日 |
入力者 | 阿和泉拓 |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2007-06-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 326 ページ(500字/頁で計算) |
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木剣試合
1
文政×年の初夏のことであった。
杉浪之助は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
と、
「エーイ」
「イヤー」
という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
で、四辺を見廻して見た。
掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業の比較ではなく、打物こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額を癇癖の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
誘いの隙に相違なかった。
それに老武士は乗ったらしい。
一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい一刹那に、
「あれ、お父様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
正面に立っている屋敷の縁に、十八九の娘が立っていた。
跣足でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
そう思わざるを得なかった。
浪之助は娘を見た。
柘榴の蕾を想わせるような、紅い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。
2
「何だそのような未熟の腕で…