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旧聞日本橋
きゅうぶんにほんばし |
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作品ID | 4534 |
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副題 | 07 テンコツさん一家 07 テンコツさんいっか |
著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「旧聞日本橋」 岩波文庫、岩波書店 1983(昭和58)年8月16日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2003-07-17 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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――老母よりの書信――
鼠小僧の家は、神田和泉町ではなく、日本橋区和泉町、人形町通り左側大通りが和泉町で、その手前の小路が三光新道、向側――人形町通りを中にはさんで右側大通りが堺町、及がくや新道、水天宮は明治七、八年から芝三田辺より来られ候。
三光新道が鼠小僧の家、母親と妹がすまつてゐて、妹には旦那があつて、その旦那の来てゐる時は、表のこうし戸の前に万年草の植木鉢が出してある。鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさなよき男のよし、その母は引廻しの日にとうといお寺へ参つて坊さんになつたさうです。祖母さんの若いころには堺町に芝居が三座あり、その外人形座もあり、かげま茶屋といふものもあつたよしに候。
私は微笑した。こんなつまらない事ではあるが、他人のいった事が正しいような気がして無意識に従うことがある。実は、前章の末に書いた鼠小僧のくだんの中に、神田和泉町と書いたのは何処かに目に残っていた文字をそのまま書いてしまったのだった。講釈本からかも知れない。あるいは戯曲の台本などからかも知れない。
和泉橋は今でも神田と下谷にかけてかかっている。和泉町といえば神田の方がゴロがよい、というわけでもあるまいが、日本橋区内の和泉町は知る人がすけない。そこで、ちっとばかり古い事を並べて見ると、本編最初からお馴染になっている大門通りは、廓の大門の通りなのだから大門とよんでください。芝にも大門があるがあれは大門である。
日本の首都である東京の日本橋の中央の大問屋町が、遊女屋町吉原の大門通りであって、堺町、和泉町、浪花町、住吉町、大坂町でとんで伊勢町など、みんな関西から出稼ぎ――遊女屋の出身地だとばかりはいわれまいが――人の地名から来ている。長谷川町は大和からの名であろうが、其処には長谷川という大きな木綿問屋が現今でもある。
葭町を廓の中心地とすると、人形町の名がどうやらわかってくる。人形屋もありはあったが、室町十軒店の方が有名でもあり、数も多い。ここの人形商はおやま商業であったことがわかる。親父橋が渡しで廓がよいに不便だろうと、遊女屋側からかけたので、遊人それを徳とし、その特志家を――実は商業上手を、おやじおやじと尊称した名が残ったのであると記録にもある。このよし原が浅草田圃に移され、新吉原となってからでも、享楽地としては人形町通りを境にして親父橋寄りに、葭町、堺町、葺屋町側に三座の櫓があり、かげま茶屋、色子、比丘尼が繁昌した。今では反対の側の住吉町、浪花町の方に芸妓屋がのこり、明治の末大正にかけて、かきがら町に私娼、大正芸妓があった。
新吉原は浅草公園を外苑地帯として根を張り、あとから移転していった芝居――山之宿の市村座、鳥越の中村座など、激しい時代転歩にサッサと押流され、昔日の夢のあとは失なってしまったが、堺町、葺屋町の江戸三座が、新吉原附近に移るには間があった。古…