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歌へる日まで
うたえるひまで
作品ID45343
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「文藝春秋 第八巻第七号」文藝春秋社、1930(昭和5)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-17 / 2016-05-09
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 蝉――テテツクス――ミユーズの下僕――アポロの使者――白昼の夢想家――地上に於ける諸々の人間の行状をオリムパスのアポロに報告するためにこの世につかはされた観光客――客の名前をテテツクスといふ――蝉。
「その愚かな伝説は――」
 さあ歌へ/\、今度はお前の番だ! と攻められるのであつたが、何故か私には歌へぬのだ――だが、私は凝ツとしてゐられないのだ――酒樽の上に立ちあがつて喋舌り出したのである。
「えゝ、もう沢山だわい。演説を聴くために俺達は酒を飲んでゐるんぢやない。」
「仕方がないや、例に依つて合唱の一節だけを、アウエルバツハの古めかしいワン・スタンザを借用して、諸君順番に勝手気儘に歌ふと仕様ぢやないか。」
「賛成/\、そこで水車小屋の太将、お前から始めてくれい!」
 私達が住んでゐる村の酒場であるが、常連の森に住む炭焼家、村役場にゐる執達吏、村長のノラ息子、牧場の牛飼ひ、麦畑作りの小作人、舟を持たない漁業家、小説家である私、私と同じ家に起居して、同じく文学研究に没頭してゐるHとRといふ二人の大学生、隣り村の元村長達の毎夜/\の大騒ぎは恰もアウエルバツハの不良青年の面影に似てゐる! といふところから私達は、いつの間にかゝら此の居酒屋を、その名で称び、何か勝手気儘な歌をうたつては、合間/\に一同が声をそろへて、あの合唱である「恋に焦れて悶ふるやうに――」と高唱するのが慣ひになつてゐた。
「よしツ!」
 と水車小屋の大将は、フラ/\と立ちあがると足拍子をとりながら、斯んなやうな意味の歌をうたつた。――俺にだつて云ふに云はれぬ悲しみも苦しみもあるのだ、それを知りもしないで昨夜も昨夜、一杯機嫌で此処から帰つて行くと、吾家の婆アは大不機嫌で閉め出しを喰はせた、癪に触つたから門口の扉を滅茶苦茶に叩きのめした、ところが昨日のあの雨で水嵩の増した水車の勢ひが目の廻るやうな凄じさだ、俺の騒ぎなんて聞へればこそだ、俺は気狂ひのやうに暴れた、水車のしぶきが雨のやうに頭から降りかゝつて俺は何だか勇ましい芝居でもしてゐるやうな好い心地になつて、戦つた、格闘した、角力をとつた、月の光りを浴びながら、クルクル回る水車の影を相手に――、そして、目が廻つて、げんげの花盛りの田の中に、悶絶した……それ合唱だ!
「恋に焦れて悶ふるやうに、恋に焦れて悶ふるやうに――」
 常連は手拍子、足拍子をそろへて喉も張り裂けよとばかりに高唱した。
「あの娘が呉れた紅苺を――」
 今度は村長が身振りよろしく歌ひ出した。
「うつかり喰べたら毒だつた……苦しい/\堪らない、手あたり次第に掻き[#挿絵]り、噛み齧つては七転八倒、悶え悶えて跳ね狂ひ、甲斐なく萎れて倒れしは――」
 合唱「恋に焦れて悶ふるやうに……」
 その村長は、つい此間まで街の歌妓に現を抜かして通ひ詰めてゐたのであるが、いつの間にか…

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