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鬼涙村
きなだむら |
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作品ID | 45347 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房 2002(平成14)年7月20日 |
初出 | 「文藝春秋」文藝春秋社、1934(昭和9)年12月 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2006-10-20 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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一
鵙の声が鋭く気たゝましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空でゞもあるかのやうにちかぢかと澄んで耳を突く。けふは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下は未だ朝霧が立ちこめてゐたが、芋畑の向方側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射して、栗拾に駈けてゆく子供たちの影があざやかだつた。そして、見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しさうだつた。芋の収穫はもう余程前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で光りが流れるに従つて白い煙が揺れた。万豊は其処で小屋掛の芝居を打ちたいはらだが、青年団からの申込みで来るべき音頭小唄大会の会場にと希望されて不性無精にふくれてゐるさうだつた。
私と同居の御面師は、とつくに天気を見定めて下彫の面型を鶏小屋の屋根にならべてゐた。私は鋸屑を膠で練つてゐたのだ。万豊の桐畑から仕入れた材料は、ズイドウ虫や瘤穴の痕が夥しくて、下彫の穴埋に余程の手間がかゝつた。御面師は山向ふの村へ仕入れに行くと、つい不覚の酒に参つて日帰りもかなはなかつたから、寄所なく万豊の桐で辛棒しようとするのだが、斯う穴やふし瘤だらけでは無駄骨が折れるばかりで手間が三倍だと滾しぬいた。此後はもう決して酒には見向かずにと彼は私に指切したが、急に仕事の方が忙しくて材料の吟味に山を越える閑もなかつた。万豊は下駄材の半端物を譲つた。値段を訊くとその都度は、まあ/\と応揚さうにわらつてゐながら、仕事の集金を自ら引受け、日当とも材料代ともつけずに収入の半分をとつてしまふと、御面師は愚痴を滾した。万豊は凡てにハツキリしたことを口にするのが嫌ひで、ひとりで歩いてゐる時も何が可笑しいのか何時もわらつてゐるやうな表情だつた。では元々さういふ温顔なのかと想ふと大違ひで、邸の垣根を越える子供等を追つて飛出して来る時の姿は全くの狼で、普段はレウマチスだと称して道普請や橋の掛換工事を欠席してゐるにも係はらず、垣も溝も三段構へで宙を飛んだ。
そのうちにも、さつきの子供たちがばら/\と垣根をくゞり出て芋畑を八方に逃げ出して来たかと見ると、おいてゆけ/\野郎共、たしかに顔は知れてるぞなどと叫びながら、何方を追つて好いのやらと途惑ふた万豊が八方に向つて夢中で虚空を掴みながら暴れ出た。万豊の栗拾にゆくには面をもつて行くに限ると子供たちが相談してゐたが、なるほど逃げてゆく彼等は忽ち面をかむつてあちこちから万豊を冷笑した。鬼、ひよつとこ、狐、天狗、将軍達が、面をかむつてゐなくても鬼の面と化した大鬼を、遠巻にして、一方を追へば一方から石を投げして、やがて芋畑は世にも奇妙な戦場と化した。
「やあ、面白いぞ/\。」
私は重い眼蓋をあげて思はず手を叩いた。私の胸はいつも異様な酒の酔で陶然としてゐる見たいだつたから、そんな光景が一層不思議な夢のやうに映つた。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だつたの…