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木枯の吹くころ
こがらしのふくころ
作品ID45349
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「新潮」1934(昭和9)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者伊藤時也
公開 / 更新2006-09-27 / 2014-09-18
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 そとは光りに洗はれた月夜である。窓の下は、六尺あまりの探さと、三間の幅をもつた川だが、水車がとまると、水の音は何んなに耳を澄ましても聴えぬのだ。
「寒いのに何故、窓をあけておかなければならないのだ?」
 俺は囲炉裡のふちで、赤毛布にくるまつただるまであつた。彼は返事もせぬのである。
 俺たちの頭の上のラムプは、暗かつた。太吉は、むつと腕を組んで、ラムプよりも明るい月の光りが吻つと煙つてゐる窓を視詰めてゐるだけだつた。彼の膝の上には編みかけの草鞋がのつてゐる。太吉は左の眼が義眼なので、手仕事に疲れやすかつた。彼は、体裁を顧慮することなく、また気短かで、平気で安価の眼玉を購ふので、それは目蓋から喰み出して、右の眼と色が異つてゐた。俺は彼の眼を見ると、時々憎みを感じた。
 だが光りを浴びて、彼の眼玉は高価の品に似た。左右の色も区別がなかつた。――彼は再び膝の上に眼を落して、仕事にとりかかつた。右の眼は稍々悲し気にうつむき、余念なく人生をあきらめてゐるかのやうであつたが、左のはぎらりと飛び出して、俺の方を睨んでゐた。このために彼は、つい多くの人達の感情を害した。友達は彼にいつも高価品を購ふことをすすめるのだが、ひと月に少くとも一度ぐらゐは破壊の憂目を見るので、とても買ひ切れぬと彼はこぼした。
 彼は四十歳だが、結婚の経験を持たなかつた。
 微かな鼾きがするので、見ると、彼は草鞋の端をつまんだまま、うつとりと居眠りであつた。義眼の眼蓋は主人が眠つても、笑つても決してしまらなかつたから、見る者は屡々本尊の心的状態を見誤つた。――笑ふ――と云へば、彼はわらふ場合には目蓋を閉ぢるのが癖である。然し、いつにも俺は彼の笑ひ声に接した験しもないのである。
 太吉が、その時突然蟇のやうに仰向くと、突拍子もない大きなクシヤミを発した。これがはじまると、十も二十も連続するのが彼の癖だつた。
 炭をついでゐた俺は、
「だから、窓を閉めれば好いのに……」
 と慌てて、立ちあがりながら着てゐる毛布を貸さうとした。彼は、はつはつはつ……とクシヤミの発作に駆られて肩をすぼめてゆくのだ。そして、それが破裂すると、飛びあがるまいとして囲炉裡のふちに獅噛みつくのだが、やはり、ぎよつと背中が無理に弾んで了ふほどの激しいクシヤミであつた。そんな弾みに逆らはうとして五体に止める力は、反つて窮屈な反動を呼んだ。
「アツ!」
 と俺は思はず叫んだ。太吉の硝子眼玉が、勢ひ好く飛び出して、爛々たる焔の上に落ちたのである。これを彼は懸念して、クシヤミが破裂する毎に異様な力を込めながら震へてゐたのだ。
「アツ、眼玉が落ちてしまつた、ああああ!」
 俺はおろおろして火箸を取るのであつたが、俺の騒ぎで初めてそれと気づいた太吉は、
「火箸はいけないいけない!」
 と夢中で俺の腕をおさへた。なるほど人さし指位…

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